Makotoのオフィシャルブログ

教えるということは学ぶということ|キャスリーン・フリン「ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室」

2017/04/13

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ

「私たちは生きて、学んで、教え合う。これって素敵なことじゃない?」
キャスリーン フリン ライター ジャーナリスト 料理講師

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僕たちの身体は食べものから出来ています。

ヨガやアーユルヴェーダでは僕たちの身体をより微細なレベルでとらえていて五つの層から成り立っているのだと教えています。(パンチャ コーシャ/五つの鞘)この骨と筋肉からなる僕たちの身体は一番目の層であり、粗大な身体とされています。この層のことをサンスクリット語ではコーシャ(鞘)といい、一番目の層は「アンナンマヤ コーシャ」と言います。「アンナン」という言葉には「食べ物」という意味があり、「マヤ」という言葉が変化したものという意味なので、食べ物が変化したものが身体ということなのですね。「アンナン」には「捕食されるもの」という意味もあるので、僕たちの魂が肉体を離れた際に肉体が土にかえり、他の生物の滋養となることが暗示されているのでしょう。そしてアーユルヴェーダでは未病を防ぐことに力をいれていて、毎日なにをどう食べるのかを選択することの指導に重きがおかれています。

しかし、僕たちの身体が食べものから出来ているという、このシンプルな事実を本当に受け入れ、意識的に食べ物や調理法を選択している人がいったいどれ位いるのでしょうか?

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「ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室」と題されたノンフィクション作品は、境遇はまったく異なるが、料理ができないと思い込んでいるがために自信を無くしてしまっている10人の女性たちが、全10回の料理レッスンを通じて変わっていく、その様子が臨場感あふれる描写で表現されています。それぞれの実在する登場人物は様々な問題を抱えていて、マーガリン依存症、セレブなのに日本のカレールーで作ったカレーをわが子に食べさせ続ける、夫が料理上手で劣等感を感じている、元夫と一緒に買った七面鳥を冷凍したまま4年保存して捨てられない、等々。「ダメ女」というよりは「食」ということに関して無頓着であり、改善したいけれどやり方がわからない、無知な状態なのだと思いました。さらに、登場人物の人々は「食」ということがままならないためか、家族間での劣等感にさいなまれていたり、なにかに中毒的になっていてやめられない、無駄に沢山買ってしまうなど、その他の生活や人生に関わる様々な面でも葛藤を抱えている様に見えます。

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全10回の料理のレッスンとは、包丁の使い方や、加工品とナチュラルな調味料のテイスティングなどを通じて自炊をし、基礎力を高めることができるレッスン。肉や魚の扱い方や卵の調理法のアレンジ、こねないパンの焼き方や簡単なホイル料理など、とても実践的な内容のレッスンです。少ない買い物で沢山の料理を作ることや、残り物の再利用法などをしっかりと行うことで、なるべくゴミをださないことを提案してみます。この提案を通じて、サスティナブル(継続可能)かつ環境を配慮したライフスタイルを意識することの大切さを伝えるレッスンなど、既存の料理教室にはないクリエイティブで充実したカリキュラムは、思わず僕もキャスリーンさんのレッスンに参加したいなと思いました。特に印象的だったのが、鶏を丸ごと一羽解体するレッスンです。なぜ切り身ではなく、丸ごと一羽をさばくのかと言えば、これがかつて生き物であることを知ることで、食材としての肉を無駄にはできなくなる。その大切なことを参加者に経験から理解させるという意図が素晴らしいなと思うのです。

そもそもこの料理教室を行うことになったきっかけは、キャスリーンさんがあるスーパーで買い物している時に、冷凍食品ばかりをつぎつぎと買い物かごに入れる子連れの主婦を見かねてアドバイスした経験がアイデアとなりました。自らゲスト出演した料理のラジオ番組を通じて参加者を募り、10名の参加者の自宅に出向き、キッチンを見せてもらいながら彼女達がいつも食べている料理をキャスリーンさんの目の前で作ってもらう。そして足りない技術をレッスンの中に組む込み、全てのレッスンが終わってから参加者がその後どのように料理し、暮らしているのかを確認するという壮大なプロジェクトだったのです。

全10回のレッスンが終わり、キャスリーンさんは自分のこのプロジェクトの努力が実らず、参加者が以前と変わらないような「食」への関わり方をしていたらどうしよう、自分は良い影響を与えられたのだろうかと疑心暗鬼になりました。そうした不安を抱えながら再び彼女達のキッチンを訪ねると、多くの人がレッスンで学んだことを生かし、以前よりも自信を取り戻し、生き生きと暮らしていたのを目にしたのです。

この本の最後は、その後のキャスリーンさんの様子が描かれています。キャスリーンさんは参加者と同じくらい、あるいはそれ以上にこのプロジェクトから学び、その学びの中には本人も予期していなかった自分自身が変わって行くという過程が含まれていたようです。

「一歩引く」ことを学んだというキャスリーンさんは、このように自身のプロジェクトを締めくくっています。

「教えた人から、私たちは予期していなかった教訓を学ぶ。私たちは自分自身が誰なのか、そして人生のどのあたりにいるのかを思い出し、コースを変える為の改革が必要なのだ。

私は書いて、料理をして、人に教える事ができる。私にその情熱が詰まっていることは、私自身が良く知っている。」

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ヨガに限らず人に何かを伝えるということは、自分自身が生徒を通じて学ぶことだと思っています。また講師も100%教える内容を理解しているわけではなく、教えながら学んでいるのだとも思います。僕はヨガのインストラクターを育てる講師という役割なのですが、自分が「先生」ではなく、僕自身生徒がヨガを通じて変革していく「仲介役」に徹したいと思っています。

僕自身も教えながら自分自身への理解を深め、変化を遂げようとしている毎日なのです。

メイン講師を担当させて頂いている2つのトレーニングが最近終了し、今回も沢山の事を生徒達から学ばせて頂きました。そしてまた、新しく2つのトレーニングがスタートしています。今回はどの様な学びや変化があるのか楽しみです。

数年前、意中の人に「好きな人のタイプは?」と聞いたら「一緒に食事をしていて楽しいと思える人」という意見がかえってきました。その言葉を聞いた時は肩すかしを食らった様な感覚でしたが、今はその言葉にとても共感できますし、同じ質問を受けた時には同様の回答をしています。なぜならば、食べるということは生きることであり、どんなものをどうやって食べるかは、その人のライフスタイルに反映するのですから。

以前はオーガニックな食材にこだわり宅配で食材を注文し、仕事で家を不在にすることが多いにも関わらず冷蔵庫はパンパンで使いきることができないことが多々ありました。現在はマンションの近くのスーパーでごく少量の買い物をすませ、不必要に材料を買い足すことなく、冷蔵庫にあるものでおいしい食事を作る努力をしています。

自分で料理をつくるということは自分へ必要な滋養を与えるということ、そして自分のつくった料理を大切な人へと差し出すということは、愛情表現になりうるのだと思います。料理自体は語る言葉を持たないけれど、それはコミュニケーションなのです。

この本を読み終えてから、あらためて僕の小さなキッチンにたたずみ、冷蔵庫の扉を見つめていました。「生きて、学んで、教え合う。」そんな素敵なことをこの先も続けていくために、大切な人の身体や心を癒し滋養を差し上げる為に、今日も料理をしようと思います。

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ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室(きこ書房)」 キャスリーン・フリン(著)、村井理子(翻訳)

ヨガヨムに寄稿しています。

生命力を高める知識(アーユルヴェーダ)の実践|服部 みれい「私が輝くオージャスの秘密」

2017/03/09

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

「全体として調和がとれたときに、人はもっともよい状態で、幸福であり、健康であり、魅力的になれる。」
服部 みれい 文筆家 詩人

「アーユルヴェーダ」という言葉を初めて耳にしたのは、ヨガの指導者養成コースを受講している時だったように思います。今の日本ではエステやマッサージなど主に美容法と認識されていることが多いですが、実はアーユルヴェーダとはインドの伝承医学であり、民間療法や代替医療などではなく、独自のシステムを持つ医療体系なのです。

アーユルヴェーダの語源は、インド太古の言語であるサンスクリット語のアーユス(生命)という言葉とヴェーダ(知識)というふたつの言葉からなっています。ヴェーダとは、約5000年以上前のインドにて様々な賢者や聖人達が神から受けたインスピレーションをもとに編纂した、世界最古の書物と言われています。その知識が僕たちの元に降りてきたのは、僕たちの望みや願望を叶えるためであるとされているのです。その脈々と受け継がれてきた伝統からヨガというものが発生し、またアーユルヴェーダとして発展していきました。両方ともヴェーダという知識の源に基づいた実践的な科学であるとされています。よってヨガとアーユルヴェーダは発祥の原典が同じことから、姉妹科学と呼ばれているのですね。

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僕がヨガを学び始めた頃、必然的にアーユルヴェーダにも興味を持ちました。アーユルヴェーダに関する入門的な本を買って読んでみたのですが、「これは一体何なのか?よくわからない。」というのがアーユルヴェーダに対するはじめての印象でした。きっと多くの人にとってもアーユルヴェーダという伝統的な医学体系の全体像はなかなかつかめないのではないでしょうか。

そんな悶々とした頃に「わたしが輝くオージャスの秘密」という本に出会っていたらアーユルヴェーダに対する理解がもっと深まっていたのかなと思います。

この本の著者である服部みれいさんは、「新時代を生きぬく知恵」をテーマに様々な角度から情報を発信している文筆家です。幅広くそして奥深いアーユルヴェーダの世界観を「オージャス」というキーワードから優しく紐解いています。そしてなにより、分かりやすくて、とても実践的な内容です。

この書籍の中で「オージャス」とは人生に関わる生命エネルギーとしています。アーユルヴェーダの文脈からその生命エネルギーの増やし方や減らさないようにするための方法が、食事のとり方や生活の仕方に及んで紹介されています。

アーユルヴェーダで考える生命とは単に肉体のみを指すのではなくて、心、身体、五感、魂の複合体を指します。つまりアーユルヴェーダでは全体的に僕たちの存在を捉えていて、決して部分ではとらえていないのです。今、ホリスティック(全体的、包括的)という言葉がひとつのブームとしてありますが、アーユルヴェーダでは、はじめから全体的にみることの重要さを説いていたのです。

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アーユルヴェーダのテーマは、有益なライフスタイルと無益なライフスタイル、幸福なライフスタイルと不幸なライフスタイル、人にとって有益なことと無益なこと、人生の長さについて考察することであると定義されています。

アーユルヴェーダでは病気にならないように人々の生活指導に力を入れています。つまり太古から予防医学に力を入れていて、ヨガや呼吸法などを治療の大きなサイクルの中に取り入れるなど統合医療の先駆けでもあったのですね。ヨガ同様アーユルヴェーダも「いかに生きるのか?」を問う普遍的で実践的な哲学なのだと、服部みれいさんの作品を通じて改めて痛感しました。アーユルヴェーダとは医学として病気の治療や予防を行う以前に、本質的な幸福を追求するためのライフスタイルなのです。

では、アーユルヴェーダで考える不調や病気の原因とは何なのでしょうか。

アイアンガーヨガの創設者であるB.K.S.アイアンガー先生は、人々の病気の要因をヨガとアーユルヴェーダの観点から以下のように述べられています。

「ヨガによれば病気の原因は、心の動揺である。一方アーユルヴェーダでは病気は身体の構成要素のアンバランスに起因している。」
B.K.S.アイアンガー 「ヨーガの樹」 2015年 サンガ

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ヨガは心理的、精神的な方法で心を鎮め、おさめることをしていき、アーユルヴェーダでは身体的、生理的な方法で心と身体を整えることをしていきます。

不調や病気の原因となる身体の構成要素のアンバランスとはどのようなことなのでしょうか。アーユルヴェーダでは、私たちにそれぞれ特定の三つのエネルギー(トリドーシャ)があり、生まれながらに持ち、一生変わらない三つのエネルギー(プラクリティ)とその三つのエネルギーが生活や環境によって変化した質(ヴィクリティ)があるとされています。このエネルギーのアンバランスや特定のエネルギーが過剰に増悪することが身体の構成要素のバランスを崩していきます。アーユルヴェーダでは身体を構成する要素を7つの体組織(サプタダートゥー)として以下のように表しています。

1血漿(けっしょう・ラサ)、2血液(ラクタ)、3筋肉(マンサ)、4脂肪(メーダ)、
5骨(アスティ)、6骨髄(マッジャ)、7生殖組織(シュクラ)

これら七つの組織に十分に滋養が行き届かずに各組織が機能しないことが、不調や病気を引き起こします。

食物が体内に入り消化されることで血漿ができ血液となり、血液が筋肉にいきわたり脂肪が形成され骨となり、骨から骨髄が作られて生殖組織となります。この過程では都度、養分が消化されて、老廃物(マラ)が作られ排出されます。この流れがスムーズで各組織がうるおい、きちんと働いていれば、最終的にオージャスとなって僕たちの心と身体に現われます。

アーユルヴェーダでは消化力(アグニ)をとても重要視しています。いかに体内に(心にも)毒素(アーマ)をためずに排出できるかが大切なのです。よって、体質や食材、調理法、食べ方によって、より消化力が高まるベストな方法を選択します。そして日常の日課(ディナチャリア)として瞑想、舌を専用の器具でみがく、セサミオイルでのうがい、オイルでの体や頭のマッサージなどを行い、身体と心から毒素を排出して免疫力が高まるようにと五感のケアを怠りません。そして心身の健康や若返りを保つための行動の指針や心の在り方もアーユルヴェーダはヨガと同様に明確です。

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僕たちの健康を脅かし不調や病のもととなる身体と心のアーマ(毒素)の蓄積は、五感が間違った対象物と出会い、知性の使い方を誤ってしまうことが引き金となってしまうのです。消化力(アグニ)を高めて、効果的に毒素(アーマ)を排出する。そうすることで僕たちのエネルギー(ドーシャ)のバランスが整い、七つの体組織(サプタダートゥー)に滋養が行き渡り、十分に機能することで僕たちが内側から輝く「オージャス」を手に入れることができます。服部みれいさんの本には「オージャス」を増やすことは誰にでもできる、すぐに始められると記されていました。ヨガの練習と共に「オージャス」を増やす習慣をはじめてみましょう。

服部 みれい「私が輝くオージャスの秘密」2015年 ちくま文庫

※ヨガヨムに寄稿しています。

ありふれた日常に目を見張る力|高山なおみ「帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。」

2017/02/09

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ

「新幹線のサンドイッチは700円もしたのにぱさぱさしてちっともおいしくない。きっと今朝早く作ったやつだろう。
けど、残さずに食べた。
食べ終わってから売店がある車両にもう一度出かけて行って、うなぎ弁当とシュウマイを買った。
帰ってからお腹がすいてもいいようにとおもったのだ。」

高山 なおみ 料理家 文筆家

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今住んでいる街に越してきて、二年と半年少しの月日が過ぎ去りました。
仕事場であるヨガスクールから近すぎず、遠すぎもせずに丁度、電車で数駅先の街。どうせならば好きな街に住みたい。そして、その街は昔から地元の人が住んでいて、けれども閉鎖的ではなく、東京らしい伝統を感じさせながらも洗礼された街に住みたいなと思い、選んだのは神楽坂でした。しかし、最初の一年目は仕事が慌ただしく、基本は家と駅の往復をするばかりで、自宅は眠ることが主な場所と化していました。住んでいる街なのに散策するとか、食事をするとか、そういったことがほとんどなく過ごしていたのです。

その一年間は、仕事の成果としては多くのことを成し遂げたはずなのに、年の終わりに振り返ってみると、流されていた様な感覚や、自分できちんと舵取りができていなかったのではないかといぶかしく思うほどに、疑心暗鬼になっていました。流されて過ごしてきたという感覚の恰好たる出所を見出すことが出来ずに、自分に対してイライラした気持ちに拍車がかかっていました。

昨年になり、徐々に家の周りで過ごせる時間が増えてきました。お気に入りのカフェやレストランも見つかり、自分が街の中に馴染んでいく様子は、生活がしっかりと根付いていくような感覚で心地良さを感じています。

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たまの休みを東京で過ごすことが出来る日には、なるべく遠出をせずに、家の近所で過ごすことが最高の贅沢であり、安らぎであると感じています。そんな休日の朝には、神楽坂のカフェ併設の書店で本を選び、店内でお茶を飲む、ただそれだけのことが僕にとっては最高な心の滋養なのです。

その本屋さんは「かもめブックス」といい、独特のセンスでセレクトされた本はどれも僕の興味をそそるものばかりです。その本屋さんの定期的な企画で「はたらく本棚」というものがあります。様々な職業の人に「好きな食べ物はなんですか?」と聞くように「好きな本はなんですか?」と聞き、セレクトされた本が店内のコーナーに並びます。僕はある女性の写真家が選んだ本を眺め、その中から「帰ってから、お腹がすいてもいいようにとおもったのだ。」という不思議なタイトルの本を見つけました。

その本は料理家で文筆家でもある、高山なおみさんのエッセイです。なおみさんが伝説的なレストランのシェフから転身し、料理家や文筆家として活動する最中に書かれた文章は、単なるレシピ集でも料理や食材に関するうんちく集でもありません。ひとつのタイトルにふたつの日記が介在し、ふたつ目の日記の最後にそのエピソードにまつわる、またはそのエピソードを彷彿させる料理のタイトルが添えられています。

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日記自体は、ばらばらな事柄が描かれていますがそこには不思議な一貫性があり、まるで赤裸々な私小説のようにも感じます。そして別途その料理の数々な写真が丁寧におさめられているという形態も不思議な本です。

その日記に収められている出来事は僕にとってはごく普遍的で、どこにでもありふれている風景のように思います。特に劇的でもなく、淡々とながれていく日常の中での感情のアップダウンや、人との関わりの中での出会いや別れが当たり前のように繰り広げられています。ただ、この本を際立たせているのは、その編集上の個性的な構成などではなく、著者であるなおみさんが繰り返される選択や行為のなかでも「ありふれた日常に目を見張る力」の強さだと思います。

私小説的ではあるのですが、その日常で感じる様々な事象は決して感情におぼれることはなく、経験として熱く語られます。その描写はどろどろとした主観性でもなく、サバサバとした客観性でもなく、みずみずしい経験的な言葉で綴られていることが、この本を単なるエッセイストの日記や、料理家の著作とは一線を画するものに仕上げているのだと思います。

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そして、僕が一番共感を覚えたのが、この本のひとつひとつのエピソードではなく、文庫本のあとがきです。

「ヒトの形になる前の、というか、ヒトという服をきる前の体。
骨でもないし、筋肉でも内臓でもないもの。なにかふぬふぬとした原始的な粒みたいなもので、多分ばあさんになっても、死んで体がなくなっても、私の中からなくならないもの。
この本を書いていた時期、きっと私はそのふぬふぬが何なのか、そればかりを探っていたような気がするのです。」

なおみさんらしく、「魂」の表現が“ぬふぬふ”というのがとてもしっくりくるのです。

シェフから料理家、そして文筆家としての変化を遂げようとしていたこの時代に、なおみさんは「魂」と深くつながろうと、自分の使命に深くコミットしようとしていたのだなと、その様子をうかがえることがこの本の魅力であるように思うのです。

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衣食住の世界は人を欺くこともあるけれど、生きていくためには必要不可欠なツールであることはまちがいありません。たとえば、なおみさんのお父さんが体を離れるかもしれない間際の病院から帰る新幹線で、ぱさぱさのサンドイッチを胃に納めなくてはいけないように。そして衣食住、つまり生活にまつわるマスター達は、常に彼岸を見ながらも、大地に根を生やす強さとしなやかさを持ち合わせているのだろうと感じました。

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この本を読み終える頃にあることに気がつきました。
神楽坂に引っ越してきた一年目に感じた、自分が流されて時を過ごしたような、あの空虚さの出所は、仕事量により単に私生活が希薄になっていたわけではなくて、「ありふれた日常に目を見張る力」が弱っていたのだと。その力を取り戻すためには、日々流れる時間に耳をそばだてながら料理をする、掃除をする、など体を使って日常生活に浸透していくしかないのだと。そしてその生活で感じた経験を誰かに伝え、共有していくことが必要なのだなと思いました。

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高山 なおみ「帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。」2009年 文藝春秋

※ヨガヨムに寄稿しています。

仕事術としてのセルケア|「松浦弥太郎の仕事術」松浦弥太郎

2017/01/07

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

『僕は「仕事の基本はなんですか?」と尋ねられれば、迷わず「健康管理」と即答します。その通りだと信じ日々実践しています。どんな火急の仕事より、どんなに重要なプロジェクトより、どんなに難しいクライアントより、最優先すべきは自分の体と心の健康です。』松浦弥太郎(文筆家)

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季節が冬に変わりあっという間に新しい年を迎えました。

アーユルヴェーダ的な季節感だと、ヴァータという「空」や「風」の元素であるエネルギーへ季節が移り変わり、ヴァータにまつわる器官の不調やエネルギーの増悪が起きやすく、だれもが体調を崩しがちです。

ヨガインストラクターの方々は年末ぎりぎりまでお仕事をされ、年始も早くからお仕事を開始する方々が多いのではないでしょうか? 特にこの季節は風邪や発熱で担当クラスの代行を出す、またはクラスをクローズにしなければいけないこともあるかと思います。

僕たちはヨガとアーユルヴェーダを通じて、人の心と身体の健全さや健康を保つお手伝いをしていますが、医者の不養生とはよく言ったもので自身のヨガやアーユルヴェーダの実践は疎かにしてしまいがちです。

単に「自己の健康管理をしっかりしましょう」と月並みなことをいったとしてもあまり意味がないし、心には届かないかなと思います。
そこで今日は「丁寧に暮らす」ということをテーマにし、実践されている随筆家でクックパッド運営のWEBメディア「くらしのきほん」編集長である松浦 弥太郎さんから仕事の基本としての健康管理について、考え方を共有したいと思います。

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『包丁をぞんざいにあつかう料理人。
レンズがよごれていようとてんでお構いなしのフォトグラファー。
そんな人の仕事ぶりを信用しろと言われても、僕はためらいます。彼らが生み出すものが素晴らしいとは、どうやっても思えないのです。

自分がプロとして関わる仕事の道具は大切に取扱い、どんな時でも最良の働きができるよう、メンテナンスをわすれない。これが働くうえで欠かせない最低条件だと言えば、たいていの人は納得するはずです。

プロのアスリートの場合、睡眠時間や普段の食事など、徹底的に健康管理をしています。自分の身体が仕事の道具だと熟知しているためです。
しかし、自分の体が道具なのはアスリートだけではありません。使い方に多少の違いはあっても、だれもが心と体をつかって働きます。
その意味で心と体とは、職種を問わず、全ての人が使う「仕事の道具」なのです。

それなのに、自分の健康をないがしろにしている人があまりにも多いのではないでしょうか。

心なしで成し遂げられる仕事は何一つありませんし、体調を整えていなければ、いかなる責任もとれません。
プロとして仕事に欠かせない道具を大切に扱うことは、当然すぎるくらい、当然の話なのです。』

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いかがでしょうか?弥太郎さんからのメッセージをどの様に受け止めますか?
当然のことなのですが、健康管理を完璧に実行するのはなかなか難しいかもしれません。
しかし、ヨガとアーユルヴェーダの智慧や技術は心と身体のケア(セルフケア)に他なりません。
そしてヨガスートラという瞑想の実践にまつわる古典書には以下のようなセンテンスがあります。

ヨガスートラ4章1節
「人に生まれること、薬草(ハーブ)を生活に取り入れること、聖典の学びを実践すること、規則正しい生活をすること、瞑想の練習をすることによってヨガの成功は達成されます。」

ヨガスートラではアーユルヴェーダやヨガ、瞑想の実践を継続的に行うことをお勧めしています。
そしてそれらの実践は自己静養やセルフケアなのです。

僕は先だって、1ヵ月の間、大阪に滞在しヨガインストラクター育成講座を担当していました。慣れない環境で、外食や会食もかさなり、大阪、福岡、東京と行き来する環境は相当ハードであるとあらかじめ予測が可能であったので、いつも以上にセルフケアを心がけました。朝起きたときや夜寝る前のベッドでのヤムナの実践。朝まだ誰もいないスタジオでの瞑想やアサナの練習。
オイルの塗布やアーユルヴェーダのハーブ、そして天然のサプリメントの摂取など、五感のケアを毎日おこなったおかげで、一度風邪のような症状になりましたがなんとか乗り越え、大事には至りませんでした。

そして、弥太郎さんの作品「松浦弥太郎の仕事術」を読み、上記の自分自身の体験を通じて、今年の抱負を「自分自身のお世話をきちんとすること」と決めました。
単にヨガのポーズの練習だけにとどまるならそれは全体的ではなく健全で健康的な生活スタイルのほんの一部分にしかすぎないのです。滋養のある食べ物をとる、積極的に身体を緩めていく、読書や美しいものを鑑賞し、自然に触れるなど身体や心だけではなく、魂にも滋養を与える活動がもっと必要だなと感じています。多方面から自分自身へのケアを行えば、ヨガや瞑想など日々のルーティンも単に繰り返しや義務感にならずに情熱をもって取り組むことが可能になります。

僕はセルフケアの選択肢として、ヨガやアーユルヴェーダの可能性を十分に理解していますし、ヨガやアーユルヴェーダ、そして瞑想の実践を通じて多くの人が健やかに生活できると信じています。

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最後に弥太郎さんの仕事とはなにか?というメッセージで締めくくりたいと思います。

『「あなたにとって仕事とはなんですか?」聞かれたら僕はこう答えます。
 第一の仕事は、健康管理。
 第二の仕事は、生活を楽しむこと。
 第三の仕事は、与えられた仕事をすること。
この三つが揃ってはじめて、きちんと報酬を得られ、人を幸せにする良き働き手になりうると考えています。』
 

人が健康になり幸福になることをお手伝いする身として、この三つの教訓を常に心に留めておきたいと思います。

 
松浦弥太郎「松浦弥太郎の仕事術」2012年 朝日文庫

※ヨガヨムに寄稿しています。

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