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What is yoga?

2016/05/29

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

空前のヨガブームがひと段落を経て、人々はヨガによってたくさんの恩恵を感じている一方で、もっとヨガの本質的な部分を知りたいと思われている人々が増えてきました。もしかしたら、ブームの最中よりもヨガの実践をしている人の数は多くはないのかもしれませんが、もっとヨガを学びたいと真剣に取り組んでいる人々が増えているようです。

10人いたらその10人がヨガに求めているものはさまざま。一般的にヨガとはどんなものなのでしょうか?多くの人にとってヨガとは、エクササイズ、健康法、美容法、と捉えられていることが多いでしょう。僕も身体と健康への興味、関心からヨガの実践を始めたうちの一人です。そして、あなたにとってヨガとは何なのでしょうか?今まさに、ヨガに興味があり実践している人にとってヨガとは、自分の心を鎮めるもの、心身のバランスを取るもの、自分を中庸へと導くものとして捉え、何らかの形でその方の精神性に関わるものと思われているようです。

また何の目的でアーサナ(ポーズ)の練習を行うのでしょうか?ヨガインストラクターを育成する講師という立場から、「柔軟性がないとヨガインストラクターにはなれないのでは?」と多くの方から質問を受けます。果たしてアーサナとは柔軟性やポーズの外見的完成度を求めるものなのでしょうか?

それをヨガ哲学から紐解いてみたいと思います。

私たちがヨガ哲学とよんでいる哲学体系の大元は、ヴェーダと呼ばれる書物にその原型を見ることができます。ヴェーダは古代のインドで複数の聖者または賢者の霊感による啓示を編纂したと言われるインド最古の文献であり、ヴェーダというサンスクリット語の意味は「知識」です。これは人々の望みを叶えるため、人々を本質的な幸せに導くための知識です。僕たち人間の願いごとを叶えるためにヴェーダは現れたと言われています。

ヴェーダでは馬車のイメージを人間になぞらえています。馬車は、馬、車体、手綱、御者、車主で構成されています。このユニットのそれぞれが、私たち自身のいずれかに相当すると教えています。馬は人の感覚を司る器官であり、五感を示します。車体は人の筋、骨格からなる肉体です。手綱は思考や感情であり、御者は知性や理性と相応し、馬車の座席に乗っている人物が本当の自分(真我・魂)であると言われています。

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人間の五感は高性能で、私たちの好きや嫌いという心の傾向に合わせて様々な情報を集めてきます。その情報は思考に伝えられ欲求として現れます。馬車のイメージでいうと、馬すなわち感覚器官と、手綱すなわち思考や感情は直接的に繋がっていますね。そして、何かしらの欲求が芽生えれば、人は何らかの行動にでます。その一連の流れの中で、常に知性や理性が介在しているかが重要です。御者すなわち知性や理性は、手綱すなわち思考や感情を握り、コントロールをしています。つまりは、思考や感情の段階で知性や理性が働いている必要がありますし、行動するときにも、その結果が望むものであっても、望まないものであってもやはりそこには、知性や理性の介在か必須となります。

ヴェーダには、こう続きます。
僕たちが人生という旅をするときに、馬車のそれぞれのユニットの健全や健康が保たれている必要があります。そして、その健全さや健康というものは一朝一夕にはならず、絶え間ない努力が必要であり、注意深く自分自身の心と身体の面倒を見る必要があります。要は、各ユニットが健康や健全を保つには、それぞれの関連性における調和が保たれる必要がありますし、ユニット全体の調和がきちんとバランスされているはずです。

肉体の健康を保つにはアーサナは有効的です。感覚器官や思考器官の健全さを保つには、アーサナや呼吸法、瞑想の練習が有効的です。そして、私たちの精神の一部とみなすことができる知性や理性を育むのにも、これらのアーサナ、呼吸法、瞑想の実践がとても役に立ちます。また、知性や理性とは私たちの精神性を構成するための必要な要素です。精神性とはつまり、私たちの直感やスピリチュアリティ(霊性)なのです。

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私たちは人生という旅の最中、誰しもが、なりたい自分やあり方を探し、より良く生きたいと願っています。素晴らしい旅を体験にするためには、知性や理性を通じて、私たちの精神性、スピリチュアリティを育むことが重要であることが、馬車の構成を見れば一目瞭然ですね。そしてヴェーダが設定している旅の究極のゴールとは、無知から脱して、本質的な自己の存在を知ることに尽きます。馬車の車主の存在に気づくことが、条件付けに左右されることのない本質的な幸せであるとしています。そうすることで僕たちは車主である本当の自分が意図していた、この旅においての目的が明確になります。

旅のゴールが壮大なので、何度も旅に出る必要があるかもしれませんね。けれどもこの旅を最高のものにするために、すべてのヨガの実践は、すべてに役に立つのです。自分自身や世界と繋がるためにすべきでないこと、そして自分や世界との繋がりを確かにするために自己浄化としてすべきことが明確になったなら、アーサナや呼吸法の練習、そして毎日の瞑想の時間をどうぞ確保してください。

冒頭で、何のためにアーサナの練習をするのかと疑問を投げかけました。ひとつは僕らの筋・骨格系からなる肉体の健康を維持することがあげられるかもしれませんね。しかしそれだけではなく、アーサナの練習において、肉体が知性を持ち始めそれが心に反映すると考えます。また、知覚や意識のない、あるいは乏しい部位に、知覚や意識がもたらされることで無意識的反応から抜け出し、意識的な反応をすることができ、それもまた、人々の心的能力の向上に繋がると考えます。それが更に、呼吸法や瞑想の実践を通じて確固たるものとして形成され、知性や理性の輝きが増し、僕たちのスピリチュアリティが高まります。つまり、アーサナの練習はスピリチュアリティを高めるものなのです。

スピリチュアルな世界では、僕たち人類は、物質中心で利己主義な暗黒の闘争の時代から、今まさに精神的なものに重きが置かれ利他主義な調和の時代へ変換しつつあると言われています。人々の意識が変わり始めているこの瞬間に、ヨガが最大限に有効活用される時代にあります。皆さんとヨガのメッセージを人々に伝えられることが大きな喜びです。

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「ものの見方」を育む

2016/05/10

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

ヨガの練習を通じて多くの人が身体的効果効用を感じていますね。また、身体のみならず心の面での作用や効果を感じているが故に、ここまで多くの人にヨガが支持されるのでしょう。ヨガというと身体を意識的に動かしていくことで何らかの効果を得るものと認識している人が多いと思いますが、それはヨガの大きな景色の一部に過ぎません。

ヨガの経典である「ヨガ・スートラ」という古い文献では、冒頭にヨガのコンセプトを一言で明確に示しています。ヨガ・スートラ1章2節に、

「ヨガとは心の働きを止滅させるものである」

という本質が述べられています。

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五感が集めた様々な情報に僕たちの心は翻弄され、そしてネガティブな感情によって心は漂流してしまいますね。感情や考え、思いを止めることではなく、ヨガ・スートラからのメッセージは、その一連の流れを変えること、つまり僕たちがインプットしてしまっている癖に気づき、心の反応パターンを変えることではないでしょうか?

ある出来事が目の前で展開された時に、心がどの様に動くか注意深く観察し、そして、その自動的な反応パターンをしっかりした意図を持って変えていくことができたとしたら、心は純質(サットヴァ)と結びつき、僕たちは穏やかさと静けさの中に留まることができるのでしょう。

ヨガポーズや呼吸法、瞑想の体験を通じて僕たちは、ものの見方の質を向上させることで、激質(ラジャス)や鈍質(タマス)から離れ、純質(サットヴァ)と繋がることができるのではないでしょうか?

今回のタイトルである「ものの見方」の本質を問う映画を観たことがあります。吉田修一という小説家の作品が原作となる「悪人」という映画です。原作も読んでいませんでしたし、正直なところ映画を観終わった後は「よくわからない…」でした。映画のテーマやメッセージを鑑賞直後は理解することができなかったのです。しかし、映画の余韻が波紋のように僕の中に浸透してきて、徐々にこの映画に託されていたメッセージを理解できた気がします。

この映画のテーマは人間に潜む「善」と「悪」という二極を扱い、人間の本質は「善」と「悪」であると定義し、コミュニケーション不全がそこかしこで描かれています。ヨガの経典では優しさや慈悲という意識を本来僕たちは持ち合わせ、すべてにおいて調和が保たれている状態を誰しもが求めているのだと教えます。映画では主人公をはじめ主要な登場人物の「善」と「悪」が描かれ、その人物がまず自分自身と不調和な状態であること、また登場人物同士のコミュニケーション不全が人間同士の不調和な関係として表現されていました。その不調和の根源が「ものの見方の質の低さからくる誤解」であると思うのです。

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ヨガの世界観では、僕たちにはそれぞれ魂が意図し用意した使命があるとされています。それ以前に僕たち共通の課題が、僕たちのものの見方の質を高めることなのではないでしょうか?

目の前に展開される事象をどのように見て、どう扱うのか?

感覚器官である五感が集めた情報をどの様に扱い、またその情報が感情として現れる前にその感情をどの様に捉え、処理し、表現するのか?

その一連の流れの質が問われているのだと思います。ヨガで身体の外内にしっかりと意識を向けることで観察力が磨かれ、瞑想を繰り返し、繰り返し行うことで僕たちの心の動きは穏やかさと静けさを取り戻すことでしょう。

さあ、あなたは、あなたの眼前に繰り広げられるこの世界を、どの様に見ていますか?

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「知識」が本当の先生であり、真の主役。

2016/05/08

カテゴリ: ヨガを旅する, 鈴木愛子のオフィシャルブログ

一年で一番気持ちの良い季節がやって来ましたね ♪
我が家の植物たちも、太陽の光を浴びて嬉しそう。
元気いっぱいです。

ヨーガとは、今、この瞬間の素晴らしさに気づくための生き方です。

呼吸をしている。
丈夫な手足がある。
愛する家族の笑顔がある。
気持ちの良い風が吹いている。
八百屋さんに夏の野菜が並び始める。
東京にもびっくりするぐらいたくさんの花が咲いている。

なんて幸せなんだー☆

もう過ぎた過去のことや、まだ来ていない未来のことで頭が一杯だと、今、この瞬間の素晴らしさを見逃してしまう。

だから、ヨーガ。

すっきりしたココロで街を歩けば、今この瞬間、春の素晴らしさを誰よりも楽しむことができるでしょう。

幸せな瞬間といえば、先日、短期コースを卒業した生徒さんたちから、メッセージ入りの色紙をいただきました。
私の担当クラスは少ないにもかかわらず、どうもありがとう。
なんだか嬉しくて、部屋の中の私が座る場所から見える、ちょうど正面に飾ってしまいました。

振り返りながら思い出すのは、みんなの「目」。

「理解」がある時、そこには輝く目があります。

「理解」は、「解釈」とは全く異なるもの。
どの角度から見ても曖昧なところがなにもないように、たったひとつの答えを求めていくこと。

しかも、ヨーガで追求するのは他でもない大切な存在である「自分自身」。

その答えまで導いてくれるのが先生の役割です。

私は役割上、「先生」と呼ばれますが、本当の先生は知識そのものであり、私はたまたまそれを伝える役割が与えられただけ。
偉くもすごくもない。
なぜなら成長するために努力するのは、生徒さん自身だからです。

講師やインストラクターは、人前に出るので一見華やかに見えるかもしれないけれど、真の主役はこの知識。
伝統工芸品の職人のようなものであり、表舞台に立つことを望むようなものではありません。
案外コツコツと地道に取り組むものなのですよ。

だから、インストラクターになるなら絶対に忘れてほしくないのが、知識が先生であり主役であるということ。

目立つことや、すごいと思われること、感謝されることを目的とするのではなく、上からでも、下からでもなく、何千年も続く叡知であるヨーガの教えを伝えていくことができること、人々の理解や気づき、勇気のキッカケになること、幸せにしてあげるのではなくて、幸せに気づく力をサポートをすること。

そんなところに喜びを感じてほしいなー、と思います。

なーんて、偉そうに言ってしまいましたが 。。

一度、ヨーガの素晴らしさを知ったあなたなら、アーサナを通して、生き方を通して、たくさんの人にヨーガを伝えていくことができるのは間違いありません。

いただいた色紙から、春の息吹みたいな、みんなのパワーが伝わってきました。

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