Makotoのオフィシャルブログ

仕事術としてのセルケア|「松浦弥太郎の仕事術」松浦弥太郎

2017/01/07

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

『僕は「仕事の基本はなんですか?」と尋ねられれば、迷わず「健康管理」と即答します。その通りだと信じ日々実践しています。どんな火急の仕事より、どんなに重要なプロジェクトより、どんなに難しいクライアントより、最優先すべきは自分の体と心の健康です。』松浦弥太郎(文筆家)

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季節が冬に変わりあっという間に新しい年を迎えました。

アーユルヴェーダ的な季節感だと、ヴァータという「空」や「風」の元素であるエネルギーへ季節が移り変わり、ヴァータにまつわる器官の不調やエネルギーの増悪が起きやすく、だれもが体調を崩しがちです。

ヨガインストラクターの方々は年末ぎりぎりまでお仕事をされ、年始も早くからお仕事を開始する方々が多いのではないでしょうか? 特にこの季節は風邪や発熱で担当クラスの代行を出す、またはクラスをクローズにしなければいけないこともあるかと思います。

僕たちはヨガとアーユルヴェーダを通じて、人の心と身体の健全さや健康を保つお手伝いをしていますが、医者の不養生とはよく言ったもので自身のヨガやアーユルヴェーダの実践は疎かにしてしまいがちです。

単に「自己の健康管理をしっかりしましょう」と月並みなことをいったとしてもあまり意味がないし、心には届かないかなと思います。
そこで今日は「丁寧に暮らす」ということをテーマにし、実践されている随筆家でクックパッド運営のWEBメディア「くらしのきほん」編集長である松浦 弥太郎さんから仕事の基本としての健康管理について、考え方を共有したいと思います。

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『包丁をぞんざいにあつかう料理人。
レンズがよごれていようとてんでお構いなしのフォトグラファー。
そんな人の仕事ぶりを信用しろと言われても、僕はためらいます。彼らが生み出すものが素晴らしいとは、どうやっても思えないのです。

自分がプロとして関わる仕事の道具は大切に取扱い、どんな時でも最良の働きができるよう、メンテナンスをわすれない。これが働くうえで欠かせない最低条件だと言えば、たいていの人は納得するはずです。

プロのアスリートの場合、睡眠時間や普段の食事など、徹底的に健康管理をしています。自分の身体が仕事の道具だと熟知しているためです。
しかし、自分の体が道具なのはアスリートだけではありません。使い方に多少の違いはあっても、だれもが心と体をつかって働きます。
その意味で心と体とは、職種を問わず、全ての人が使う「仕事の道具」なのです。

それなのに、自分の健康をないがしろにしている人があまりにも多いのではないでしょうか。

心なしで成し遂げられる仕事は何一つありませんし、体調を整えていなければ、いかなる責任もとれません。
プロとして仕事に欠かせない道具を大切に扱うことは、当然すぎるくらい、当然の話なのです。』

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いかがでしょうか?弥太郎さんからのメッセージをどの様に受け止めますか?
当然のことなのですが、健康管理を完璧に実行するのはなかなか難しいかもしれません。
しかし、ヨガとアーユルヴェーダの智慧や技術は心と身体のケア(セルフケア)に他なりません。
そしてヨガスートラという瞑想の実践にまつわる古典書には以下のようなセンテンスがあります。

ヨガスートラ4章1節
「人に生まれること、薬草(ハーブ)を生活に取り入れること、聖典の学びを実践すること、規則正しい生活をすること、瞑想の練習をすることによってヨガの成功は達成されます。」

ヨガスートラではアーユルヴェーダやヨガ、瞑想の実践を継続的に行うことをお勧めしています。
そしてそれらの実践は自己静養やセルフケアなのです。

僕は先だって、1ヵ月の間、大阪に滞在しヨガインストラクター育成講座を担当していました。慣れない環境で、外食や会食もかさなり、大阪、福岡、東京と行き来する環境は相当ハードであるとあらかじめ予測が可能であったので、いつも以上にセルフケアを心がけました。朝起きたときや夜寝る前のベッドでのヤムナの実践。朝まだ誰もいないスタジオでの瞑想やアサナの練習。
オイルの塗布やアーユルヴェーダのハーブ、そして天然のサプリメントの摂取など、五感のケアを毎日おこなったおかげで、一度風邪のような症状になりましたがなんとか乗り越え、大事には至りませんでした。

そして、弥太郎さんの作品「松浦弥太郎の仕事術」を読み、上記の自分自身の体験を通じて、今年の抱負を「自分自身のお世話をきちんとすること」と決めました。
単にヨガのポーズの練習だけにとどまるならそれは全体的ではなく健全で健康的な生活スタイルのほんの一部分にしかすぎないのです。滋養のある食べ物をとる、積極的に身体を緩めていく、読書や美しいものを鑑賞し、自然に触れるなど身体や心だけではなく、魂にも滋養を与える活動がもっと必要だなと感じています。多方面から自分自身へのケアを行えば、ヨガや瞑想など日々のルーティンも単に繰り返しや義務感にならずに情熱をもって取り組むことが可能になります。

僕はセルフケアの選択肢として、ヨガやアーユルヴェーダの可能性を十分に理解していますし、ヨガやアーユルヴェーダ、そして瞑想の実践を通じて多くの人が健やかに生活できると信じています。

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最後に弥太郎さんの仕事とはなにか?というメッセージで締めくくりたいと思います。

『「あなたにとって仕事とはなんですか?」聞かれたら僕はこう答えます。
 第一の仕事は、健康管理。
 第二の仕事は、生活を楽しむこと。
 第三の仕事は、与えられた仕事をすること。
この三つが揃ってはじめて、きちんと報酬を得られ、人を幸せにする良き働き手になりうると考えています。』
 

人が健康になり幸福になることをお手伝いする身として、この三つの教訓を常に心に留めておきたいと思います。

 
松浦弥太郎「松浦弥太郎の仕事術」2012年 朝日文庫

※ヨガヨムに寄稿しています。

ヨガを通じてなりたい自分になる|「私らしく働く」服部みれい

2016/11/28

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

「だれもが外側の尺度に合わせて無理するのをやめて『自分自身』に戻って『自分の仕事』をしたなら、世界は最高に幸せな場所になるはずとかなり本気で思っています。」

服部みれい
文筆家、『まぁまぁマガジン』編集長、詩人

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現在僕は、ヨガを人々に伝えることを生業としています。もしかしたら人々には変わった職業に就いていると思われるかもしれません。僕の家族も変わった職業で、代々ドッグトレイナーの家系です。一人っ子の僕は、常に犬と一緒に過ごし育ってきたので、小さい頃は獣医になりたいと思っていました。その後10代の多感な時代に、衣食住への関心と身体への強い興味から、身体に一番近いものである服の構造を学ぶために文化服装学院でファッションデザインを専攻していました。現在はヨガを通じて筋骨格系からなる身体の構造や微細なレベルでの身体について学びを深めているルーツが、僕の場合は服であったのです。

多くの20代の若者がそうであるように、僕も若い頃は生意気で既存の体制にはいつでも反旗を翻すぞとばかりに血気盛んでした。テキスタイルデザイナーとして、またセレクトショップなどでファッションの仕事をしていましたが、既存のファッションの世界に生きることの本質はないと勝手に決めつけ、アートの世界にこそ人生の本質があると思い救いを求めましたが、常に仕事を通じて自分自身に失望をしてきました。

そんな悶々としている20代後半にヨガに出会いました。ヨガに興味があったけどなかなか踏み込めずに数年が経っていましたが、ちょうどその頃日本ではヨガがブームとなっていたので、スポーツジムで手軽に良いクラスを受けることができました。身体と心を同時に満たすことができるヨガにすっかり魅了されてしまい、ヨガをライフスタイルにしたいという思いから、それまでの仕事や住まいを清算して、ヨガを生活の中心に据えるようになったのです。

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服部みれいさんの「私らしく働く」という書籍を、今年の41歳の自分の誕生日に読んでいました。みれいさんは新しい時代の生き方を様々な角度から提案し、自らも実践をされている文筆家です。彼女の提案する新しい時代を生き抜くための知恵として、自然療法を中心にアーユルヴェーダや瞑想についてのトピックスが多く寄せられています。「私らしく働く」ではそんな著者が駆け出しの雑誌編集者となり、後に自身のメディアとして雑誌を創刊、出版社を設立、編集長として、文筆家として、また一人の女性として奮闘する様子がみずみずしく描かれています。この本を通じて、僕の仕事の転換期から現在のヨガ講師に至るまでの道のりを思い出しました。多くの人が「好きなことを仕事にしたい」と思い描いています。そのような人々にみれいさんは、「誰でも何でもすぐに『好きなこと』を仕事にできるほど世の中は甘くないかなとは思います」と述べ、さらに以下のようにアドバイスを送っています。

「わくわくすること」

「やめないこと、あきらめないこと」

「小さな成功体験を積み重ねること」

「自分自身への感謝やご褒美を忘れないこと」

「どうしてもうまくいかない時は、時と場所を変えてみること」

「高飛びせずにじわじわと進むこと」

「部分的にでも今現在の仕事を先に好きになること」

「自分が幸福になることを許可すること」

僕も端から見れば『好きなこと』を仕事にし、自分らしく自由に働いているように見えるかもしれません。そして最初から今のような立ち位置にいるように思われるかもしれませんが、もちろんそのようなことは不可能ですし、ありえません。

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10数年前に、僕が初めてのヨガインストラクター育成スクールを修了した当時は、スクールの数もヨガスタジオの数も今よりずっと少なくて、特に指導経験のない男性がヨガの指導者として実践をつめるような機会はなかなかありませんでした。やっとのこと、小さな場所でヨガのクラスを担当するチャンスを与えられ、その後諦めずにコツコツと担当するクラスを増やしていきました。その間数年は休みを取らずに働いていました。余暇という意味での休みはもちろんですが、自分の勉強のためだからといってワークショップやトレーニングに参加するために代講を出すこともせずにいました。当時何でそんなに働くことができるのか?と周りの友人から聞かれましたが、やはりヨガが好きという気持ちが強くあったのと、僕の家族がドックトレナーでしたので、生き物を扱う生業である以上は実質的な休みというものがない状態で日々働いていたのを目の当たりにしていたからだと思います。家族の背中を見てきたことから、好きなことを仕事にするにはその様な生活は当然であると思っていましたし、辛いという気持ちはなくむしろ楽しんでいました。

この世に生を受けて今この場所にいる意味とは、与えられた身体と心を上手に扱いながらどの様に世界と関わっていくのか、その質を高めることにあるとヨガの実践を通じて感じています。
そして、ヨガの教えでは自分の使命(ダルマ)を全うすることが自分と世界との調和であるとされています。世界とつながり、自分の使命(ダルマ)に忠実に生きて行くならば魂と自分が深い絆で結ばれます。それが好きな仕事で自分らしく働くことを通じてなされるのならば、常に情熱的に生き、内からの生命力(オージャス)で満たされそうです。「私らしく働く」ということは、自我(アハンカーラー)を中心に据えた考え方などではなく、自分の使命に従った結果として宇宙からの授かりものであると感じています。そして、ヨガ的な自己実現とは物質的、金銭的な成功とは異なるということを常に心に留めておきたいです。

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「なりたい自分になる」ということをテーマにヨガをベースとした活動をしていますが、僕のプロフィールにあるヨガ講師という職業、スクールやスタジオのディレクターであるという肩書きは、僕自身の本質ではないとうことをはっきりと認識しています。僕の現在の職種は僕の使命(ダルマ)を全うするのに今のところ最適であるに過ぎないと思っていますし、大そうな肩書きは、僕がイメージしたことを具現化しやすくするための通行証のようなものだと思っています。

僕の興味はヨガの伝統やテクニックを伝えるのみならず、その根底にある本質的な幸せを求めることを通じて自分のあり方を確立し、人の生き方に良い影響を与えることに尽きます。
もしかしたらその広大なテーマをメッセージとして人々に伝えるには、ヨガ講師という立場では限りがあるかなと感じています。その事を裏付けるかのように、僕が信頼を寄せている占星術の先生達からは、今後僕の本質にある創造と破壊の力が大きくはたらき、また新たなることに挑戦を続けていくだろうと教えていただきました。そして今そのはじまりを確かに感じています。

人が情熱を持って自分の仕事(使命)に取り組むことは、今を生きることに他なりません。
確かに今生きているという実感を感じ続けることができるように、目の前にあることに焦点を絞り、集中を絶やさずに先に進んでいきたいです。

「わたしらしく働く!」(服部みれい著、マガジンハウス、2016年)

手放すことで自らの人生を取り戻す|ジョシュア・フィールズ・ミルバーン+ライアン・ニコデマス「あるミニマリストの物語」

2016/10/24

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む

「自分の外側にあるものに根本を置いている間は、決して幸福感も充足感も味わえることはないだろう。自分の内側から出てくるものこそ必要なものである。」

ジョシュア・フィールズ・ミルバーン
ライアン・ニコデマス
(ミニマリズム活動家、作家)

物や人との交流に溢れ、混沌としている現代において、ミニマリズムという考え方や生き方があり、ミニマリストという、その考え方や生き方を体現し表現している人々がいるようです。

情報過多で物質至上主義にある現代において人間らしくあり、自分らしく現代を生き抜こうとするその生き方には、どのような特徴があるのでしょうか?

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ミニマリズムの定義とは、最小限主義、無駄なものを極限まで省き、シンプルにすることで人間の本質を浮き彫りにしていくという1960年代に芸術のスタイルとして現れたものが1990年代に再度ファッションの流行として現れ、ヘルムート ラングそして、マルタン マルジェラなどのアントワープ派といわれるデザイナー達がそれまでのファッションの世界に反旗を翻し、全く新しいコンセプトを生み出したのです。彼らのデザインはハイブランドにも大きな影響力を与え、プラダなどの大手メゾンがリアルクローズと名を打ちシンプルかつ実用的なデザインを展開していました。しかし、時代はまだ1960年代の前衛的なアートの表現には追いつかずに1990年代はデザインのみがミニマム(最小限)でありその他は全てにおいてマキシマム(最大限)であることを人々はまだ求めていました。

そして2011年頃からこのミニマリズムという定義を自らの消費行動に照らしあわせて、持ち物や生活全般、そして仕事に対して応用させ人生を再検証することで自らの人生を取り戻し、自己実現させる人々が現れたようです。かられは自らをミニマリストと名乗り、彼らのコンセプトやライフスタイルがここ数年で瞬く間に浸透しているように見えます。

ジョシュア・フィールズ・ミルバーンとライアン・ニコデマスはこのミニマリズムを実践し「The Minimalists」という二人組のユニットを立ち上げて、彼らのウェブサイト「TheMinimalists.com」を通じエッセイや映像のメッセージを発信し、世界中の人々に情熱を持って生きることを提案しています。

彼らの作品である「あるミニマリストの物語」は、若くして成功し、アメリカンドリームの真っただ中にいた二人が、年々上がる自分の役職や年収に酔いながら物欲をどんどんと満たしていく中で、ある本質に気付いていく物語です。まずジョシュアが母の死後に彼女のアパートメントを片付け、そのガラクタの多さに途方にくれ、自分の物に溢れた家に帰り、物の持つネガティブなエネルギーに気づき、物は人を豊かにはせずに、逆に束縛し、苦しめるるということを理解します。そして、ジョシュアに影響を受けたライアンは自らの物に溢れた部屋の品々を引っ越し用のダンボール箱にパッキングし、箱の表面に品物の名を明記、その中の物が必要になったら開けるという方法を試します。結局ライアンは3週間の間に約20パーセント程度の物しか箱から取り出しておらず、後生大事にとっておいた物達はそのほとんどが不用品であると判断し、彼にとっての優先事項が何なのかを明らかにする良き機会となったのです。

二人は自己実現を果たすためには物や社会的な地位、そして沙汰な交友関係は必要ではないと気づきます。自分達の人生を再検証し、身の周りを極限までそぎ落としていくことで本当に必要な物や人は誰なのかを見極め、自分が情熱を傾けられる使命に没頭することを生業としようと決意するのです。そして、二人からなるユニットを立ち上げ、ウェブサイトを通じて執筆活動を始めます。

彼らの気づきが本文にはこのように記されています。

「本当の安心というのは、僕らの内部にあるものであり、継続的に成長することであって、決して外的要素の成長に頼ったものではない。真の意味で安心させてはくれない事物を求める、その外的な欲求をなくしてしまえば、僕らは自分のフォーカスを自分の内部へと向けることができ、周囲にある品物を崇拝することは無くなるはずだ」

彼らの物語を読み進める中で、2人の人生がマキシマム(最大限)からミニマム(最小限)に変容を遂げる軌跡がヨガのメッセージ(哲学)と交差していることに僕は気づきました。

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ヨガの原点であるヴェーダという古代の文献には人間には4つの願望(プルシャ・アルタ)があると記されていて、それらは、安全(アルタ)、悦び(カーマ)、調和(ダルマ)、本質的な幸せ(モークシャ)であるとされています。一見するとヨガは厳しく禁欲的な印象を多くの人が思い描いていると思います。けれどもヨガでは欲望を抱くこと自体にはおとがめを立ててはいません。人生を通じて、僕たちが行う活動の多くは安全と悦びに焦点が向けられています。しかし、彼らは安全と悦びをどれだけ手に入れても常に空虚を感じていて、決して満たされることがありませんでした。そして、物や人間関係の手の入れ方が調和に基づいていないことに気づくのです。つまりは、自分の身の丈にあったやり方や自分らしいやり方で手に入れていないことを痛感します。そして、情熱を傾けられる仕事や、他者への貢献、そして自分の使命へと向かっていきます。最終的にジョシュアやライアンも安心や悦びのみを必要以上に追い求めることは本質的に自分を幸せには導かないことに気づきます。

ヨガでは本質的な幸せに自分自身を導く為に8つのプログラムがあるとされています。(ヨガの8支則/アシュタンガヨガ)その中であらゆる物事に執着せずに、必要以上の物事を抱え込まない(負貪/アパリグラハ)という教えや、与えられた物事に感謝し満足をする(知足/サントーシャ)という教えがあり、これらを実生活の中でのすべきこと・すべきでないこととして実践しなさいと推奨しています。

現代のミニマリストたちがヨガの教えに影響を受けているのかはわかりませんが、彼らの考え、そして行動は、ヨガの教えである「不貪」や「知足」と全く同じであり、ヨガとの共時性を感じます。

僕たちには身体と心を使い、世界や他者とどのように関わっていくのか、どのように社会や他者へ貢献ができるのか、といった共通の課題を持っています。

そしてさらに僕たちにはそれぞれ、個人の使命があるとされています。2人の物語の中で彼らははっきりと自分の使命に焦点を当てることをこのように宣言しています。

「僕は生きていく中で何かもっと意味のあることをしていきたいという思いを持っている。情熱を燃やせることをやりたい。『自分の情熱に従え』だとか『人生においてやるべきことをやれ』という文句には、大それた宣言として成文化されたイメージがあるけれど、僕はただ単純に、自分の使命を見つけるということを言いたいだけだ。」

身体と心を駆使して、世界や他者と関わっていく中で、僕たちは皆自分の使命を見つけ出していくのだと思います。その過程においてあふれ返る物やたくさんの情報は、本質を見極めることの障害となるのだと思います。しかし多くのミニマリストの人達が行っているような持ち物を数十個程度におさめるということをいきなり実践することは、なかなか難しそうです。そして本来持ち物の数とはその人の許容範囲によるのだと思います。その人の経済的な条件や物を管理し活用できるのかどうかといった条件の振り幅が、物の数を左右するのだと思います。

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現在の僕は、地方にて長期滞在で仕事をしています。

東京での住まいを数十個の物に絞ることはハードルが高いので、まずこの滞在中にできるだけ少ない持ち物にしようと思い、機内持ち込み可能なトランク1つとL.L.beamの大きなトートバックに必要だと思われる物を詰め込みました。そして最低限の家具や家電のあるマンスリーマンショから仕事場であるヨガのスクールへと通っています。今のところ東京から持ってきたもので十分に生活ができています。仕事の量としては東京にいる頃と何ら変わりませんが、東京にいた頃は時間がないと常に感じ、自分の情熱を傾けるべきことを後回しにして出来ずにいました。しかし、ここでは自分の時間をきちんと確保することができます。どうやら多くの物やたくさんの人間関係を抱え込もうとするあまりに自分の焦点がぼやけてしまい、足りないという錯覚を起こしていたようです。この錯覚はもちろん物質や人との交流にも当てはまりそうですね。「物は多い方が良い」「大は小を兼ねる」「情報源を沢山持つことは素晴らしい」「友達は多い方が良い」などといった今までの僕たちの価値観を根底から見直すことが多くの人達にとっても必要ではないでしょうか。

不思議なことにヨガの世界で考えている時間のサイクルでは、ミニマリストの人々が現れだしたあたりから時代が変革を始めていると考えられています。それまでの物質中心で闘争的な世界から、調和を保ち、精神的なものに重きをおく時代へと人々の意識が変わり始めるとされているのです。

この本の原題は「Every Thing That Remains」とあり「後に残った全ての物」と訳すことができます。残った物とは実際に物資的な物だけでなく、生きる上での思考や人との関係も含まれるのでしょう。そしてそれら残った物全ては、愛おしく大切な物ばかりでしょう。そしてこの物語は単に片付けの仕方や収納方法を伝えるハウツー本ではもちろんありません。物や人そして、時間を貪らなくても今この現状だけで十分に満足が得られるはずであり、その潔い態度はきっとまっすぐに自分の使命へと向かわせてくれることを示す哲学的な物語です。

前衛的な劇作家そして演出家の寺山修司は1960年代終わりに「書を捨てよ、町へ出よう」と言いました。2000年代の今「物を捨てよ、自分の内面へと向かおう」と声高らかに宣言し、僕たちが情熱を持って生き、自分の使命を見つけることができたならば、魂が喜び、僕らの生活や人生が有意義なものになるでしょう。多くの物を手放すことで僕たちの生命のあり方が顕になり、人生を取り戻すことが可能になります。

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「あるミニマリストの物語-僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで-」ジョシュア・フィールズ・ミルバーン(2016年、フィルムアート社)

ヨガヨムへ寄稿しています。

メメントモリ 死を思うこと|ミッチ・アルボム 「モリー先生との火曜日」

2016/10/04

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」モリー・シュワルツ(社会学者 作家)

所属しているヨガの会社の会長である鷲見会長が、生前にスタッフ自身の葬儀を体験して欲しいのだと懇親会の席でおっしゃっていました。もちろんそれは不謹慎なことではなく、自分の死を体験することですべきこととすべきでないこと、成し遂げるべきことと手放すべきことを明確にするために、人生に本当の意義を見出す事ができるように、との願いが込められているのであろうことを理解することができました。ヨガインストラクター育成スクールにてディレクターを務めさせていただき、所属する講師の教育を担当させていただいている僕は、鷲見会長からインスピレーションを受け、ある本を研修の一貫として必須課題図書に選ぶことを思いついたのです。

ヨガのインストラクターになるための勉強を始めた頃に尊敬していたヨガの先生がいて、その先生のクラスは毎週火曜日でした。呼吸を繊細に感じ取り、ポーズからポーズへ繋ぐムーブメントには感受性豊かな、詩的な表現の言葉が連なり、それがまるで音楽のような、リズム感を生む不思議な心地良さに溢れた素敵なヨガのクラスでした。その先生から勧められた1冊の本がありました。ヨガ的な考え方を身につけたいと、難解なヨガ哲学の解説書を傍に置いてましたが、理解に苦しんでいた頃に紹介された本のことをその頃の懐かしさと共に思い出しました。

「モリー先生との火曜日」と題されたその本は、社会学の学者であり、米国のブランダイス大学の教授であるモリー・シュワルツが、難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)という死に至る神経疾患に侵されながらも、類まれな精神性の高さを持ち続け、死に侵蝕されながらも、人々に勇気を与え続けた真の教師としての生き方を綴ったノンフィクション作品です。

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モリー先生はひょんなことから、元教え子で、ジャーナリストのミッチ・アルボムと再会を果たします。彼らがモリー先生の授業で毎週火曜日にキャンパスで会っていたように、今度は病床に伏せるモリー先生の自宅に毎週火曜日、モリー先生が肉体を離れるまで全部で14回訪問しました。病に伏せた教授と若きジャーナリストは、教授の人生最後の講義を記録し、この物語のテーマを「人生について」、つまり「死」ということを前提として、今世の人生をいかにして生きるかを大きな題材とし、「世界の現象」「文化」「愛」「感情」「欲望」「恐怖」など、おおよその宗教や哲学が扱う難しい内容を、モリー先生流にシンプルで分かりやすく、また知性や洞察力に溢れた素晴らしい智慧の数々で綴られています。

「死ぬっていうのはね 、悲しいことの一つにすぎないんだよ 。不幸な生き方をするのはまた別のことだ。」

モリー先生の死を前提とした2人の再会でしたが、ミッチが大学を卒業して数十年が過ぎ去り、時は2人を確実に変化させてしまいました。売れっ子のスポーツジャーナリストとして、人から見たら欲しいものをすべて手に入れたように見えるミッチですが、心は空虚で乾いていました。そして、ミッチはモリー先生との再会を喜んでいましたが、心の中では良き生徒でない自分に後ろめたさを感じてさえいたのです。

毎週火曜日に彼らは会い、そして人生の意味を再度考察していきます。先生と生徒という形態ですが、多くの教師がそうであるように、モリー先生もまた、ミッチに教えるということで自らが人生の真意を学んでいたのではないでしょうか?またミッチも再び、モリー先生の教えに触れることによって、みずみずしい感性を取り戻し、心を潤していくのです。

人はだれしもが本質的には生きる意味を求めていると思います。そして、ヨガの世界では、人は使命を持って、この時代、この場所に生を授かったと考えています。モリー先生が社会学というツールを使い 人生の意味を探求していたように、僕たちは、ヨガというツールを使い、自己探求をすることで自分の使命を理解することができるようになります。その使命を本当の意味で理解したのなら、僕たちはどのような態度や振る舞いに変わるのでしょうか?

モリー先生はこの様に語っています。

「みんなまるで夢遊病者なんだな。われわれはこの世界のことを十分に体験していない。それは半分寝ているから。やらなければいけないと思っていることを無反省にやっているだけだから。」

「よけいなものをはぎとって、かんじんなものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっとかわるよ。」

死を見据えることができるならば、私達の意識が開かれて、今により焦点を当てることで良き、意義のある人生の展開が可能になるようです。

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まだ若い頃は、時間やエネルギーが無限にあるように感じていました。しかし肉体には制限があり、魂は無限に存在し続けることを理解している今、この肉体を持って生まれた使命を全うしたいと、モリー先生のメッセージを読みながら思います。

僕が肉体を去ったら、この人生で出逢った人たち、つまり家族や友人やパートナーを愛した証しはどこへいくのか?長い間、このことをどの様に理解したら良いのかと考えていました。この質問にモリー先生はこの様に答えてくれています。

「愛とは死んだあとも生きてとどまるもの。」

死んだあと、親しかった人々にいつしか忘れさられるのが心配でないか?との答えに「愛は生きてとどまる。」とモリー先生は明言します。

肉体を離れて、物質としてこの世界を去ったとしても、愛が記憶や意識してこの大きな宇宙の片隅に記録されるのならば、それは素晴らしいことだと思うのです。

死を見据えるために毎朝
「今日が最後の日か?」
「用意はできているか?」
「すべきことはすべてしているか?」
「なりたいと思う人間になっているか?」
とマントラの様に唱えると良いとモリー先生は言います。

ある朝に、明日がこの肉体を去る日、この人生最後の日だとつげられたとしたら、僕は誰に何を伝えにいくだろうか?
そして誰に「愛している」と伝えにいくだろか?

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ミッチ・アルボム「モリー先生との火曜日」2004年 NHK出版

ヨガヨムへ寄稿しています。

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