Makotoのオフィシャルブログ

贈り物について

2016/11/21

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 歳時記, 自己探求

今仕事で大阪に長期滞在しています。梅田は東京に住んでいる僕でさえ目が回るような大きな都市で、東京とは違った発見がたくさんあります。梅田の地下街はクリスマスのディスプレイでショーウィンドが美しく飾り付けられていて、毎朝その様子を見ながら仕事場のヨガスクールに通っています。毎年見ているはずのクリスマスや、年末年始に向けての風物詩が、慣れしたしんだ街ではない場所で感じることがとても不思議な感覚です。

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この季節というのは家族や友人、そしてパートナーと共に過ごす時間を大切にし、贈り物をしあう季節でもありますね。僕も毎年この季節になると何を贈ろうかと迷いますし「何が欲しい?」と聞かれてその返事に数日以上かかってしまいます。正直、欲しいと思うものが子供の頃に比べてすぐには思いつきません。大人になったことで年々欲しいものというのが減ってきたし、必要なものは自分でまかなうことができるようになりました。今年の誕生日には父から「何か欲しいものを買ってあげるよ」と言われたまま、欲しいものが思いつかずに年末にさしかかろうとしています。

ここ数年では、自分の誕生日やクリスマスに家族やパートナーに贈り物を頂くときのリクエストとして、一生使えるものが欲しいと頼んでいます。今では数百円や数千円単位の手軽な値段で様々なものが手に入ります。だからこそ、僕が日常生活で使うものや仕事で使うものなどは長く使える良質なものが欲しいなと思っています。たとえば、今までに頂いた贈り物には真鍮の鍋や柘植の櫛などの生活に必要で良質なもの、そして、ユニークな贈り物ですが、僕の仕事には有効的なアイテムである骨格模型などがあります。逆に、家族やパートナーから頂きたくないものは電化製品や流行りの品など一過性ものです。そして友人や同僚に贈り物を送るときには、消えてなくなるものが良いかなと思っています。その人の好みや嗜好を把握している場合には、ものを贈ることもありますが、そうでない時は食べ物や飲み物、石鹸やキャンドルなど、消えて無くなってしまうものや消耗品を贈るようにしています。

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そして、僕たちは互いにお土産といって旅をしてきた土地のものを贈り合いますが、本当に毎回必要でしょうか?僕はお土産を贈る時には食べ物以外は贈らないようにしています。しかし、実は食の好みも様々ですし、お土産屋さんに陳列されている食べ物が僕たちの心や身体に滋養をもたらすものとはあまり思えません。最近はお土産も月並みなものは贈らないようにし、お土産を贈るということが、慣習的にならないように心がけています。

また僕たちは、たまに会う家族、親戚や友人達に会うたびにブランド物のリップクリームやハンドクリーム、ハンカチやタオルといった小物を贈り合います。贈り主が大人で相手が子供であれば成り立ちますが、大人であればにおいや触感といった五感にまつわる好みが既に確立しているので、贈り物が喜ばれるかは定かではないです。たとえば、成熟した大人に自分で選んだ香水を贈り、相手に本当に喜ばれるということは難しいかと思います。

断捨離などの教訓には、お土産や贈り物などで自分にとって不必要なものは捨てるべきであるとはっきり断言しています。せっかく人から頂いた贈り物でも、自分にとって不要なものであればそれを潔く捨て去ることが自分の秩序を守ることになるのでしょう。

そもそもクリスマスは西洋の風習ですが、いつから日本人はクリスマスに贈り物をしあうようになったのでしょうか。明治時代にはキリスト教系の慈善団体が貧しい人々にクリスマスプレゼントを贈り始めたようです。そして大正から昭和にかけて子供や家族間、そして親しい人々の間で贈りものを贈り合うことが定着したようです。キリスト教徒でないのにクリスマスと称して贈りものを贈り合うのは違和感があるとは思っていません。共に1年を過ごしてくれたお礼として、気持ちを届けることは素晴らしいと思います。

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最近読んだ本の「あるミニマリストの物語」にはクリスマスへの新しい提案が紹介されています。

「このクリスマスに贈り物を一つもらえるとしたら何が欲しい?僕の答えはハッキリしている。時間さ。最高のプレゼントって、その場にいることなんだ。だって、僕にとっては、大きなリボンをかけて贈られる新しい靴とかピカピカの電子機器とか車検付きの高級中古車なんかよりも、自分が大切にしている人たちのほうがずっと大切だからさ。それなのに、そういう大好きな人たちと一緒に時間を過ごせないことの代償として、物質主義的な品物を送ろうというのが今の主流なんだ。品物で失われた時間を埋めあわせることって絶対にできない。今度誰かからクリスマスになにが欲しいかって聞かれたら『あなたと一緒に過ごせたら、それが私にとって最高のプレゼントだ』と答えてみたらどうだろう。」

もうすぐホリデーシーズンであるクリスマスや年末年始です。この季節は家族団欒を楽しんだり、普段は会えない友人と再会を楽しんだり、愛するパートナーと親密な時間を楽しんだりするために僕たちに贈られた特別な時間ですね。その本当の目的から的が外れてしまい、品物を買い贈ることに焦点がずれてしまわぬようにしたいですね。

僕の今年のクリスマスは以前のようになにを贈ろうか?なにが欲しいか?と頭を悩ませ時間を費やさなくてすみそうです。僕らしい選択をして、大切な人たちと絆を深める為に有意義な時間を過ごそうと思います。

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目的を見極めること

2016/10/21

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

僕のクラスやワークショップ、そしてトレーニングに参加してくださる方たち、つまりヨガのアーサナを実践するだけでなく、「学ぶ」方たちにいつも強調してお伝えしていることがひとつあります。

「そのアーサナの一番の目的を明確に把握してください。」

と。繰り返し、繰り返しお伝えしているメッセージです。

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特定のアーサナは、属性やバックグラウンドを必ず持ち合わせています。立位のアーサナなのか、座位のアーサナなのかという属性や前屈や後屈、回旋のアーサナなのかという属性、そしてその動きを司る関節は身体の中でどの様に動くのかを、分析し理解していくのです。

アーサナの練習において、アーサナを「カタチ」だけで取り組もうとする観察力の過不足が、洞察力と結びつかなくなってしまい、そのことが特定のアーサナでの目的が不明確になってしまうことによりアーサナの実践にそぐわない葛藤が生まれてしまいます。

ヨガ・スートラという、瞑想を伝えるインドの古典文献によると、ヨガの実践を絶え間なく続けていると、とめどなく動き続ける心の在り方を見定めることができると教えています。

そのヒントが身体を使うハタヨガにあります。

ハタヨガとは、瞑想に重きを置き伝える、ヨガ・スートラ以降に発展した、身体や呼吸をツールとしたヨガのテクニックの総称です。

では次に、ハタヨガの実践を繰り返し行うことで、どのように見極める力が育まれるのかを見ていきましょう。

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ハタヨガの練習時にがむしゃらに取り組むのではなく、またやみくもにアーサナに歯を食いしばって取り組むのでもなく、もっと意識的に取り組みをしていきたいです。ハタヨガの実践から得られる効果を、身体の機能向上や生理学的機能を整えるだけではなく、本当の意味での“恩恵”を享受したいです。

そのためにはアーサナに慣れ親しみ、特定のアーサナが持つ属性や 要素を分析します。

ヨガのアーサナの種類はたくさんあります。また、ヨガのアーサナは、ダイナミックで複数の関節を複合的に動かすことで構成されていますので、シンプルな運動に比べるととても複雑です。そして、アーサナ本来の力強さや美しさに圧巻されてしまうばかりに、そのアーサナの持っている「本質的な目的」を見失いがちになります。自分の身体やアーサナの中で戸惑い、迷子にならないためにも、アーサナの持つ要素をひとつひとつ丁寧に知っていきます。

まず、そのアーサナが持つ属性、つまり基本的な姿勢に注目し、立位や座位、前屈や後屈、回旋等に、アーサナをおおまかなグループに分けます。その後、そのアーサナにおいて大きな関節、つまり足首や膝、股関節、肩関節の動きを理解し、書き出してみます。たったそれだけのことで、そのアーサナのポイントであり、一番の目的が浮き彫りとなり、明確になります。

それは一見すると、とても単純なことですが非常に重要なことであると僕は考えています。

ヨガの実践を生活に取り入れて習慣化している人には、そのアーサナにおいて最優先事項と、あえて手放すことがはっきりすることで、実践の内容がより濃く明確になることで有意義な時間となります。またハタヨガの指導を行いライフワークとしている人にとっては、たくさんある情報を取捨選択することで、伝えるべきこと、あえて伝えないことがはっきりし、指導内容がシンプルになることでより多くのことが生徒に伝わるでしょう。

アーサナを分析してみて、そのアーサナの目的が明確になったなら、自分は何をすべきで、何をすべきでないのかがはっきりすることで、複雑かつ複合的なアーサナも、実はヨガのメッセージ(哲学)同様に、非常にシンプルで明快であることに気づくことができます。その過程で僕たちは自分の身体を俯瞰することになります。

目的が明確になっていることで、身体の探求はより易しくなり、深い呼吸と共に自分の身体を観察する余裕が生まれます。その余裕が安定と快適さ(スティラとスッカ)を生み出し、観察力が育まれることで洞察力へと昇華します。また洞察力と直感が強く結び付くことで僕たちは物事の本質を見極める力がつきます。

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「どの様な種類(流派)のヨガを実践し、指導しているのですか?」
とよく周りの方々から尋ねられます。僕は特定の流派をフォローしてはいなのですが、「アライメントを重視したハタヨガ」、あるいは、「アライメントに重きを置いたフロースタイルのヨガ」を実践し伝えていますと答えています。ヨガのアライメントとは、特定のアーサナにおける正しい関節の動かし方、身体の使い方、それによるエネルギーの流れを指します。アーサナにおける完成形や見た目の美しさを追求しているのではなく、自己の意識を高めるために、アーサナを自己探求の道具とする時に、それを使いこなす道具としてアライメントを使います。もし目的が不明確であれば、便利なアライメントという道具も意味を持たずに、単にアーサナの完成形に固執するという葛藤を生み出し兼ねません。「囚われている自己」というイメージを解放するためのヨガが、いつしかアーサナに囚われてしまうことで、自己のイメージがさらに限定されてしまうという落とし穴にも陥りかねませんね。もちろん自分や生徒の身体の安全を守るためにも、この道具は大変有効なのです。

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心が彷徨い、葛藤が苦悩へと繋がってしまわないようにするために、ヨガ・スートラでは繰り返しヨガの実践(アビヤーサ)と見極める力(ヴァイラーギャ)のふたつが必要であると説いています。ハタヨガの練習で特定のアーサナが持つ属性を理解し、アーサナが持つ要素を分析し、その中からアーサナの一番の目的を割り出し、焦点を定めることでその見極める力が養われます。
マットの上で繰り返し実践したことは身となり、きっと実生活でも本質を見極める目が手に入ります。その時、それまで過剰に動いていた自分の心が静かに治まる様子を目撃することでしょう。

What is yoga?

2016/05/29

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

空前のヨガブームがひと段落を経て、人々はヨガによってたくさんの恩恵を感じている一方で、もっとヨガの本質的な部分を知りたいと思われている人々が増えてきました。もしかしたら、ブームの最中よりもヨガの実践をしている人の数は多くはないのかもしれませんが、もっとヨガを学びたいと真剣に取り組んでいる人々が増えているようです。

10人いたらその10人がヨガに求めているものはさまざま。一般的にヨガとはどんなものなのでしょうか?多くの人にとってヨガとは、エクササイズ、健康法、美容法、と捉えられていることが多いでしょう。僕も身体と健康への興味、関心からヨガの実践を始めたうちの一人です。そして、あなたにとってヨガとは何なのでしょうか?今まさに、ヨガに興味があり実践している人にとってヨガとは、自分の心を鎮めるもの、心身のバランスを取るもの、自分を中庸へと導くものとして捉え、何らかの形でその方の精神性に関わるものと思われているようです。

また何の目的でアーサナ(ポーズ)の練習を行うのでしょうか?ヨガインストラクターを育成する講師という立場から、「柔軟性がないとヨガインストラクターにはなれないのでは?」と多くの方から質問を受けます。果たしてアーサナとは柔軟性やポーズの外見的完成度を求めるものなのでしょうか?

それをヨガ哲学から紐解いてみたいと思います。

私たちがヨガ哲学とよんでいる哲学体系の大元は、ヴェーダと呼ばれる書物にその原型を見ることができます。ヴェーダは古代のインドで複数の聖者または賢者の霊感による啓示を編纂したと言われるインド最古の文献であり、ヴェーダというサンスクリット語の意味は「知識」です。これは人々の望みを叶えるため、人々を本質的な幸せに導くための知識です。僕たち人間の願いごとを叶えるためにヴェーダは現れたと言われています。

ヴェーダでは馬車のイメージを人間になぞらえています。馬車は、馬、車体、手綱、御者、車主で構成されています。このユニットのそれぞれが、私たち自身のいずれかに相当すると教えています。馬は人の感覚を司る器官であり、五感を示します。車体は人の筋、骨格からなる肉体です。手綱は思考や感情であり、御者は知性や理性と相応し、馬車の座席に乗っている人物が本当の自分(真我・魂)であると言われています。

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人間の五感は高性能で、私たちの好きや嫌いという心の傾向に合わせて様々な情報を集めてきます。その情報は思考に伝えられ欲求として現れます。馬車のイメージでいうと、馬すなわち感覚器官と、手綱すなわち思考や感情は直接的に繋がっていますね。そして、何かしらの欲求が芽生えれば、人は何らかの行動にでます。その一連の流れの中で、常に知性や理性が介在しているかが重要です。御者すなわち知性や理性は、手綱すなわち思考や感情を握り、コントロールをしています。つまりは、思考や感情の段階で知性や理性が働いている必要がありますし、行動するときにも、その結果が望むものであっても、望まないものであってもやはりそこには、知性や理性の介在か必須となります。

ヴェーダには、こう続きます。
僕たちが人生という旅をするときに、馬車のそれぞれのユニットの健全や健康が保たれている必要があります。そして、その健全さや健康というものは一朝一夕にはならず、絶え間ない努力が必要であり、注意深く自分自身の心と身体の面倒を見る必要があります。要は、各ユニットが健康や健全を保つには、それぞれの関連性における調和が保たれる必要がありますし、ユニット全体の調和がきちんとバランスされているはずです。

肉体の健康を保つにはアーサナは有効的です。感覚器官や思考器官の健全さを保つには、アーサナや呼吸法、瞑想の練習が有効的です。そして、私たちの精神の一部とみなすことができる知性や理性を育むのにも、これらのアーサナ、呼吸法、瞑想の実践がとても役に立ちます。また、知性や理性とは私たちの精神性を構成するための必要な要素です。精神性とはつまり、私たちの直感やスピリチュアリティ(霊性)なのです。

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私たちは人生という旅の最中、誰しもが、なりたい自分やあり方を探し、より良く生きたいと願っています。素晴らしい旅を体験にするためには、知性や理性を通じて、私たちの精神性、スピリチュアリティを育むことが重要であることが、馬車の構成を見れば一目瞭然ですね。そしてヴェーダが設定している旅の究極のゴールとは、無知から脱して、本質的な自己の存在を知ることに尽きます。馬車の車主の存在に気づくことが、条件付けに左右されることのない本質的な幸せであるとしています。そうすることで僕たちは車主である本当の自分が意図していた、この旅においての目的が明確になります。

旅のゴールが壮大なので、何度も旅に出る必要があるかもしれませんね。けれどもこの旅を最高のものにするために、すべてのヨガの実践は、すべてに役に立つのです。自分自身や世界と繋がるためにすべきでないこと、そして自分や世界との繋がりを確かにするために自己浄化としてすべきことが明確になったなら、アーサナや呼吸法の練習、そして毎日の瞑想の時間をどうぞ確保してください。

冒頭で、何のためにアーサナの練習をするのかと疑問を投げかけました。ひとつは僕らの筋・骨格系からなる肉体の健康を維持することがあげられるかもしれませんね。しかしそれだけではなく、アーサナの練習において、肉体が知性を持ち始めそれが心に反映すると考えます。また、知覚や意識のない、あるいは乏しい部位に、知覚や意識がもたらされることで無意識的反応から抜け出し、意識的な反応をすることができ、それもまた、人々の心的能力の向上に繋がると考えます。それが更に、呼吸法や瞑想の実践を通じて確固たるものとして形成され、知性や理性の輝きが増し、僕たちのスピリチュアリティが高まります。つまり、アーサナの練習はスピリチュアリティを高めるものなのです。

スピリチュアルな世界では、僕たち人類は、物質中心で利己主義な暗黒の闘争の時代から、今まさに精神的なものに重きが置かれ利他主義な調和の時代へ変換しつつあると言われています。人々の意識が変わり始めているこの瞬間に、ヨガが最大限に有効活用される時代にあります。皆さんとヨガのメッセージを人々に伝えられることが大きな喜びです。

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「ものの見方」を育む

2016/05/10

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

ヨガの練習を通じて多くの人が身体的効果効用を感じていますね。また、身体のみならず心の面での作用や効果を感じているが故に、ここまで多くの人にヨガが支持されるのでしょう。ヨガというと身体を意識的に動かしていくことで何らかの効果を得るものと認識している人が多いと思いますが、それはヨガの大きな景色の一部に過ぎません。

ヨガの経典である「ヨガ・スートラ」という古い文献では、冒頭にヨガのコンセプトを一言で明確に示しています。ヨガ・スートラ1章2節に、

「ヨガとは心の働きを止滅させるものである」

という本質が述べられています。

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五感が集めた様々な情報に僕たちの心は翻弄され、そしてネガティブな感情によって心は漂流してしまいますね。感情や考え、思いを止めることではなく、ヨガ・スートラからのメッセージは、その一連の流れを変えること、つまり僕たちがインプットしてしまっている癖に気づき、心の反応パターンを変えることではないでしょうか?

ある出来事が目の前で展開された時に、心がどの様に動くか注意深く観察し、そして、その自動的な反応パターンをしっかりした意図を持って変えていくことができたとしたら、心は純質(サットヴァ)と結びつき、僕たちは穏やかさと静けさの中に留まることができるのでしょう。

ヨガポーズや呼吸法、瞑想の体験を通じて僕たちは、ものの見方の質を向上させることで、激質(ラジャス)や鈍質(タマス)から離れ、純質(サットヴァ)と繋がることができるのではないでしょうか?

今回のタイトルである「ものの見方」の本質を問う映画を観たことがあります。吉田修一という小説家の作品が原作となる「悪人」という映画です。原作も読んでいませんでしたし、正直なところ映画を観終わった後は「よくわからない…」でした。映画のテーマやメッセージを鑑賞直後は理解することができなかったのです。しかし、映画の余韻が波紋のように僕の中に浸透してきて、徐々にこの映画に託されていたメッセージを理解できた気がします。

この映画のテーマは人間に潜む「善」と「悪」という二極を扱い、人間の本質は「善」と「悪」であると定義し、コミュニケーション不全がそこかしこで描かれています。ヨガの経典では優しさや慈悲という意識を本来僕たちは持ち合わせ、すべてにおいて調和が保たれている状態を誰しもが求めているのだと教えます。映画では主人公をはじめ主要な登場人物の「善」と「悪」が描かれ、その人物がまず自分自身と不調和な状態であること、また登場人物同士のコミュニケーション不全が人間同士の不調和な関係として表現されていました。その不調和の根源が「ものの見方の質の低さからくる誤解」であると思うのです。

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ヨガの世界観では、僕たちにはそれぞれ魂が意図し用意した使命があるとされています。それ以前に僕たち共通の課題が、僕たちのものの見方の質を高めることなのではないでしょうか?

目の前に展開される事象をどのように見て、どう扱うのか?

感覚器官である五感が集めた情報をどの様に扱い、またその情報が感情として現れる前にその感情をどの様に捉え、処理し、表現するのか?

その一連の流れの質が問われているのだと思います。ヨガで身体の外内にしっかりと意識を向けることで観察力が磨かれ、瞑想を繰り返し、繰り返し行うことで僕たちの心の動きは穏やかさと静けさを取り戻すことでしょう。

さあ、あなたは、あなたの眼前に繰り広げられるこの世界を、どの様に見ていますか?

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