Makotoのオフィシャルブログ

贈り物について

2016/11/21

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 歳時記, 自己探求

今仕事で大阪に長期滞在しています。梅田は東京に住んでいる僕でさえ目が回るような大きな都市で、東京とは違った発見がたくさんあります。梅田の地下街はクリスマスのディスプレイでショーウィンドが美しく飾り付けられていて、毎朝その様子を見ながら仕事場のヨガスクールに通っています。毎年見ているはずのクリスマスや、年末年始に向けての風物詩が、慣れしたしんだ街ではない場所で感じることがとても不思議な感覚です。

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この季節というのは家族や友人、そしてパートナーと共に過ごす時間を大切にし、贈り物をしあう季節でもありますね。僕も毎年この季節になると何を贈ろうかと迷いますし「何が欲しい?」と聞かれてその返事に数日以上かかってしまいます。正直、欲しいと思うものが子供の頃に比べてすぐには思いつきません。大人になったことで年々欲しいものというのが減ってきたし、必要なものは自分でまかなうことができるようになりました。今年の誕生日には父から「何か欲しいものを買ってあげるよ」と言われたまま、欲しいものが思いつかずに年末にさしかかろうとしています。

ここ数年では、自分の誕生日やクリスマスに家族やパートナーに贈り物を頂くときのリクエストとして、一生使えるものが欲しいと頼んでいます。今では数百円や数千円単位の手軽な値段で様々なものが手に入ります。だからこそ、僕が日常生活で使うものや仕事で使うものなどは長く使える良質なものが欲しいなと思っています。たとえば、今までに頂いた贈り物には真鍮の鍋や柘植の櫛などの生活に必要で良質なもの、そして、ユニークな贈り物ですが、僕の仕事には有効的なアイテムである骨格模型などがあります。逆に、家族やパートナーから頂きたくないものは電化製品や流行りの品など一過性ものです。そして友人や同僚に贈り物を送るときには、消えてなくなるものが良いかなと思っています。その人の好みや嗜好を把握している場合には、ものを贈ることもありますが、そうでない時は食べ物や飲み物、石鹸やキャンドルなど、消えて無くなってしまうものや消耗品を贈るようにしています。

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そして、僕たちは互いにお土産といって旅をしてきた土地のものを贈り合いますが、本当に毎回必要でしょうか?僕はお土産を贈る時には食べ物以外は贈らないようにしています。しかし、実は食の好みも様々ですし、お土産屋さんに陳列されている食べ物が僕たちの心や身体に滋養をもたらすものとはあまり思えません。最近はお土産も月並みなものは贈らないようにし、お土産を贈るということが、慣習的にならないように心がけています。

また僕たちは、たまに会う家族、親戚や友人達に会うたびにブランド物のリップクリームやハンドクリーム、ハンカチやタオルといった小物を贈り合います。贈り主が大人で相手が子供であれば成り立ちますが、大人であればにおいや触感といった五感にまつわる好みが既に確立しているので、贈り物が喜ばれるかは定かではないです。たとえば、成熟した大人に自分で選んだ香水を贈り、相手に本当に喜ばれるということは難しいかと思います。

断捨離などの教訓には、お土産や贈り物などで自分にとって不必要なものは捨てるべきであるとはっきり断言しています。せっかく人から頂いた贈り物でも、自分にとって不要なものであればそれを潔く捨て去ることが自分の秩序を守ることになるのでしょう。

そもそもクリスマスは西洋の風習ですが、いつから日本人はクリスマスに贈り物をしあうようになったのでしょうか。明治時代にはキリスト教系の慈善団体が貧しい人々にクリスマスプレゼントを贈り始めたようです。そして大正から昭和にかけて子供や家族間、そして親しい人々の間で贈りものを贈り合うことが定着したようです。キリスト教徒でないのにクリスマスと称して贈りものを贈り合うのは違和感があるとは思っていません。共に1年を過ごしてくれたお礼として、気持ちを届けることは素晴らしいと思います。

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最近読んだ本の「あるミニマリストの物語」にはクリスマスへの新しい提案が紹介されています。

「このクリスマスに贈り物を一つもらえるとしたら何が欲しい?僕の答えはハッキリしている。時間さ。最高のプレゼントって、その場にいることなんだ。だって、僕にとっては、大きなリボンをかけて贈られる新しい靴とかピカピカの電子機器とか車検付きの高級中古車なんかよりも、自分が大切にしている人たちのほうがずっと大切だからさ。それなのに、そういう大好きな人たちと一緒に時間を過ごせないことの代償として、物質主義的な品物を送ろうというのが今の主流なんだ。品物で失われた時間を埋めあわせることって絶対にできない。今度誰かからクリスマスになにが欲しいかって聞かれたら『あなたと一緒に過ごせたら、それが私にとって最高のプレゼントだ』と答えてみたらどうだろう。」

もうすぐホリデーシーズンであるクリスマスや年末年始です。この季節は家族団欒を楽しんだり、普段は会えない友人と再会を楽しんだり、愛するパートナーと親密な時間を楽しんだりするために僕たちに贈られた特別な時間ですね。その本当の目的から的が外れてしまい、品物を買い贈ることに焦点がずれてしまわぬようにしたいですね。

僕の今年のクリスマスは以前のようになにを贈ろうか?なにが欲しいか?と頭を悩ませ時間を費やさなくてすみそうです。僕らしい選択をして、大切な人たちと絆を深める為に有意義な時間を過ごそうと思います。

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手放すことで自らの人生を取り戻す|ジョシュア・フィールズ・ミルバーン+ライアン・ニコデマス「あるミニマリストの物語」

2016/10/24

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む

「自分の外側にあるものに根本を置いている間は、決して幸福感も充足感も味わえることはないだろう。自分の内側から出てくるものこそ必要なものである。」

ジョシュア・フィールズ・ミルバーン
ライアン・ニコデマス
(ミニマリズム活動家、作家)

物や人との交流に溢れ、混沌としている現代において、ミニマリズムという考え方や生き方があり、ミニマリストという、その考え方や生き方を体現し表現している人々がいるようです。

情報過多で物質至上主義にある現代において人間らしくあり、自分らしく現代を生き抜こうとするその生き方には、どのような特徴があるのでしょうか?

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ミニマリズムの定義とは、最小限主義、無駄なものを極限まで省き、シンプルにすることで人間の本質を浮き彫りにしていくという1960年代に芸術のスタイルとして現れたものが1990年代に再度ファッションの流行として現れ、ヘルムート ラングそして、マルタン マルジェラなどのアントワープ派といわれるデザイナー達がそれまでのファッションの世界に反旗を翻し、全く新しいコンセプトを生み出したのです。彼らのデザインはハイブランドにも大きな影響力を与え、プラダなどの大手メゾンがリアルクローズと名を打ちシンプルかつ実用的なデザインを展開していました。しかし、時代はまだ1960年代の前衛的なアートの表現には追いつかずに1990年代はデザインのみがミニマム(最小限)でありその他は全てにおいてマキシマム(最大限)であることを人々はまだ求めていました。

そして2011年頃からこのミニマリズムという定義を自らの消費行動に照らしあわせて、持ち物や生活全般、そして仕事に対して応用させ人生を再検証することで自らの人生を取り戻し、自己実現させる人々が現れたようです。かられは自らをミニマリストと名乗り、彼らのコンセプトやライフスタイルがここ数年で瞬く間に浸透しているように見えます。

ジョシュア・フィールズ・ミルバーンとライアン・ニコデマスはこのミニマリズムを実践し「The Minimalists」という二人組のユニットを立ち上げて、彼らのウェブサイト「TheMinimalists.com」を通じエッセイや映像のメッセージを発信し、世界中の人々に情熱を持って生きることを提案しています。

彼らの作品である「あるミニマリストの物語」は、若くして成功し、アメリカンドリームの真っただ中にいた二人が、年々上がる自分の役職や年収に酔いながら物欲をどんどんと満たしていく中で、ある本質に気付いていく物語です。まずジョシュアが母の死後に彼女のアパートメントを片付け、そのガラクタの多さに途方にくれ、自分の物に溢れた家に帰り、物の持つネガティブなエネルギーに気づき、物は人を豊かにはせずに、逆に束縛し、苦しめるるということを理解します。そして、ジョシュアに影響を受けたライアンは自らの物に溢れた部屋の品々を引っ越し用のダンボール箱にパッキングし、箱の表面に品物の名を明記、その中の物が必要になったら開けるという方法を試します。結局ライアンは3週間の間に約20パーセント程度の物しか箱から取り出しておらず、後生大事にとっておいた物達はそのほとんどが不用品であると判断し、彼にとっての優先事項が何なのかを明らかにする良き機会となったのです。

二人は自己実現を果たすためには物や社会的な地位、そして沙汰な交友関係は必要ではないと気づきます。自分達の人生を再検証し、身の周りを極限までそぎ落としていくことで本当に必要な物や人は誰なのかを見極め、自分が情熱を傾けられる使命に没頭することを生業としようと決意するのです。そして、二人からなるユニットを立ち上げ、ウェブサイトを通じて執筆活動を始めます。

彼らの気づきが本文にはこのように記されています。

「本当の安心というのは、僕らの内部にあるものであり、継続的に成長することであって、決して外的要素の成長に頼ったものではない。真の意味で安心させてはくれない事物を求める、その外的な欲求をなくしてしまえば、僕らは自分のフォーカスを自分の内部へと向けることができ、周囲にある品物を崇拝することは無くなるはずだ」

彼らの物語を読み進める中で、2人の人生がマキシマム(最大限)からミニマム(最小限)に変容を遂げる軌跡がヨガのメッセージ(哲学)と交差していることに僕は気づきました。

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ヨガの原点であるヴェーダという古代の文献には人間には4つの願望(プルシャ・アルタ)があると記されていて、それらは、安全(アルタ)、悦び(カーマ)、調和(ダルマ)、本質的な幸せ(モークシャ)であるとされています。一見するとヨガは厳しく禁欲的な印象を多くの人が思い描いていると思います。けれどもヨガでは欲望を抱くこと自体にはおとがめを立ててはいません。人生を通じて、僕たちが行う活動の多くは安全と悦びに焦点が向けられています。しかし、彼らは安全と悦びをどれだけ手に入れても常に空虚を感じていて、決して満たされることがありませんでした。そして、物や人間関係の手の入れ方が調和に基づいていないことに気づくのです。つまりは、自分の身の丈にあったやり方や自分らしいやり方で手に入れていないことを痛感します。そして、情熱を傾けられる仕事や、他者への貢献、そして自分の使命へと向かっていきます。最終的にジョシュアやライアンも安心や悦びのみを必要以上に追い求めることは本質的に自分を幸せには導かないことに気づきます。

ヨガでは本質的な幸せに自分自身を導く為に8つのプログラムがあるとされています。(ヨガの8支則/アシュタンガヨガ)その中であらゆる物事に執着せずに、必要以上の物事を抱え込まない(負貪/アパリグラハ)という教えや、与えられた物事に感謝し満足をする(知足/サントーシャ)という教えがあり、これらを実生活の中でのすべきこと・すべきでないこととして実践しなさいと推奨しています。

現代のミニマリストたちがヨガの教えに影響を受けているのかはわかりませんが、彼らの考え、そして行動は、ヨガの教えである「不貪」や「知足」と全く同じであり、ヨガとの共時性を感じます。

僕たちには身体と心を使い、世界や他者とどのように関わっていくのか、どのように社会や他者へ貢献ができるのか、といった共通の課題を持っています。

そしてさらに僕たちにはそれぞれ、個人の使命があるとされています。2人の物語の中で彼らははっきりと自分の使命に焦点を当てることをこのように宣言しています。

「僕は生きていく中で何かもっと意味のあることをしていきたいという思いを持っている。情熱を燃やせることをやりたい。『自分の情熱に従え』だとか『人生においてやるべきことをやれ』という文句には、大それた宣言として成文化されたイメージがあるけれど、僕はただ単純に、自分の使命を見つけるということを言いたいだけだ。」

身体と心を駆使して、世界や他者と関わっていく中で、僕たちは皆自分の使命を見つけ出していくのだと思います。その過程においてあふれ返る物やたくさんの情報は、本質を見極めることの障害となるのだと思います。しかし多くのミニマリストの人達が行っているような持ち物を数十個程度におさめるということをいきなり実践することは、なかなか難しそうです。そして本来持ち物の数とはその人の許容範囲によるのだと思います。その人の経済的な条件や物を管理し活用できるのかどうかといった条件の振り幅が、物の数を左右するのだと思います。

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現在の僕は、地方にて長期滞在で仕事をしています。

東京での住まいを数十個の物に絞ることはハードルが高いので、まずこの滞在中にできるだけ少ない持ち物にしようと思い、機内持ち込み可能なトランク1つとL.L.beamの大きなトートバックに必要だと思われる物を詰め込みました。そして最低限の家具や家電のあるマンスリーマンショから仕事場であるヨガのスクールへと通っています。今のところ東京から持ってきたもので十分に生活ができています。仕事の量としては東京にいる頃と何ら変わりませんが、東京にいた頃は時間がないと常に感じ、自分の情熱を傾けるべきことを後回しにして出来ずにいました。しかし、ここでは自分の時間をきちんと確保することができます。どうやら多くの物やたくさんの人間関係を抱え込もうとするあまりに自分の焦点がぼやけてしまい、足りないという錯覚を起こしていたようです。この錯覚はもちろん物質や人との交流にも当てはまりそうですね。「物は多い方が良い」「大は小を兼ねる」「情報源を沢山持つことは素晴らしい」「友達は多い方が良い」などといった今までの僕たちの価値観を根底から見直すことが多くの人達にとっても必要ではないでしょうか。

不思議なことにヨガの世界で考えている時間のサイクルでは、ミニマリストの人々が現れだしたあたりから時代が変革を始めていると考えられています。それまでの物質中心で闘争的な世界から、調和を保ち、精神的なものに重きをおく時代へと人々の意識が変わり始めるとされているのです。

この本の原題は「Every Thing That Remains」とあり「後に残った全ての物」と訳すことができます。残った物とは実際に物資的な物だけでなく、生きる上での思考や人との関係も含まれるのでしょう。そしてそれら残った物全ては、愛おしく大切な物ばかりでしょう。そしてこの物語は単に片付けの仕方や収納方法を伝えるハウツー本ではもちろんありません。物や人そして、時間を貪らなくても今この現状だけで十分に満足が得られるはずであり、その潔い態度はきっとまっすぐに自分の使命へと向かわせてくれることを示す哲学的な物語です。

前衛的な劇作家そして演出家の寺山修司は1960年代終わりに「書を捨てよ、町へ出よう」と言いました。2000年代の今「物を捨てよ、自分の内面へと向かおう」と声高らかに宣言し、僕たちが情熱を持って生き、自分の使命を見つけることができたならば、魂が喜び、僕らの生活や人生が有意義なものになるでしょう。多くの物を手放すことで僕たちの生命のあり方が顕になり、人生を取り戻すことが可能になります。

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「あるミニマリストの物語-僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで-」ジョシュア・フィールズ・ミルバーン(2016年、フィルムアート社)

ヨガヨムへ寄稿しています。

目的を見極めること

2016/10/21

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

僕のクラスやワークショップ、そしてトレーニングに参加してくださる方たち、つまりヨガのアーサナを実践するだけでなく、「学ぶ」方たちにいつも強調してお伝えしていることがひとつあります。

「そのアーサナの一番の目的を明確に把握してください。」

と。繰り返し、繰り返しお伝えしているメッセージです。

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特定のアーサナは、属性やバックグラウンドを必ず持ち合わせています。立位のアーサナなのか、座位のアーサナなのかという属性や前屈や後屈、回旋のアーサナなのかという属性、そしてその動きを司る関節は身体の中でどの様に動くのかを、分析し理解していくのです。

アーサナの練習において、アーサナを「カタチ」だけで取り組もうとする観察力の過不足が、洞察力と結びつかなくなってしまい、そのことが特定のアーサナでの目的が不明確になってしまうことによりアーサナの実践にそぐわない葛藤が生まれてしまいます。

ヨガ・スートラという、瞑想を伝えるインドの古典文献によると、ヨガの実践を絶え間なく続けていると、とめどなく動き続ける心の在り方を見定めることができると教えています。

そのヒントが身体を使うハタヨガにあります。

ハタヨガとは、瞑想に重きを置き伝える、ヨガ・スートラ以降に発展した、身体や呼吸をツールとしたヨガのテクニックの総称です。

では次に、ハタヨガの実践を繰り返し行うことで、どのように見極める力が育まれるのかを見ていきましょう。

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ハタヨガの練習時にがむしゃらに取り組むのではなく、またやみくもにアーサナに歯を食いしばって取り組むのでもなく、もっと意識的に取り組みをしていきたいです。ハタヨガの実践から得られる効果を、身体の機能向上や生理学的機能を整えるだけではなく、本当の意味での“恩恵”を享受したいです。

そのためにはアーサナに慣れ親しみ、特定のアーサナが持つ属性や 要素を分析します。

ヨガのアーサナの種類はたくさんあります。また、ヨガのアーサナは、ダイナミックで複数の関節を複合的に動かすことで構成されていますので、シンプルな運動に比べるととても複雑です。そして、アーサナ本来の力強さや美しさに圧巻されてしまうばかりに、そのアーサナの持っている「本質的な目的」を見失いがちになります。自分の身体やアーサナの中で戸惑い、迷子にならないためにも、アーサナの持つ要素をひとつひとつ丁寧に知っていきます。

まず、そのアーサナが持つ属性、つまり基本的な姿勢に注目し、立位や座位、前屈や後屈、回旋等に、アーサナをおおまかなグループに分けます。その後、そのアーサナにおいて大きな関節、つまり足首や膝、股関節、肩関節の動きを理解し、書き出してみます。たったそれだけのことで、そのアーサナのポイントであり、一番の目的が浮き彫りとなり、明確になります。

それは一見すると、とても単純なことですが非常に重要なことであると僕は考えています。

ヨガの実践を生活に取り入れて習慣化している人には、そのアーサナにおいて最優先事項と、あえて手放すことがはっきりすることで、実践の内容がより濃く明確になることで有意義な時間となります。またハタヨガの指導を行いライフワークとしている人にとっては、たくさんある情報を取捨選択することで、伝えるべきこと、あえて伝えないことがはっきりし、指導内容がシンプルになることでより多くのことが生徒に伝わるでしょう。

アーサナを分析してみて、そのアーサナの目的が明確になったなら、自分は何をすべきで、何をすべきでないのかがはっきりすることで、複雑かつ複合的なアーサナも、実はヨガのメッセージ(哲学)同様に、非常にシンプルで明快であることに気づくことができます。その過程で僕たちは自分の身体を俯瞰することになります。

目的が明確になっていることで、身体の探求はより易しくなり、深い呼吸と共に自分の身体を観察する余裕が生まれます。その余裕が安定と快適さ(スティラとスッカ)を生み出し、観察力が育まれることで洞察力へと昇華します。また洞察力と直感が強く結び付くことで僕たちは物事の本質を見極める力がつきます。

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「どの様な種類(流派)のヨガを実践し、指導しているのですか?」
とよく周りの方々から尋ねられます。僕は特定の流派をフォローしてはいなのですが、「アライメントを重視したハタヨガ」、あるいは、「アライメントに重きを置いたフロースタイルのヨガ」を実践し伝えていますと答えています。ヨガのアライメントとは、特定のアーサナにおける正しい関節の動かし方、身体の使い方、それによるエネルギーの流れを指します。アーサナにおける完成形や見た目の美しさを追求しているのではなく、自己の意識を高めるために、アーサナを自己探求の道具とする時に、それを使いこなす道具としてアライメントを使います。もし目的が不明確であれば、便利なアライメントという道具も意味を持たずに、単にアーサナの完成形に固執するという葛藤を生み出し兼ねません。「囚われている自己」というイメージを解放するためのヨガが、いつしかアーサナに囚われてしまうことで、自己のイメージがさらに限定されてしまうという落とし穴にも陥りかねませんね。もちろん自分や生徒の身体の安全を守るためにも、この道具は大変有効なのです。

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心が彷徨い、葛藤が苦悩へと繋がってしまわないようにするために、ヨガ・スートラでは繰り返しヨガの実践(アビヤーサ)と見極める力(ヴァイラーギャ)のふたつが必要であると説いています。ハタヨガの練習で特定のアーサナが持つ属性を理解し、アーサナが持つ要素を分析し、その中からアーサナの一番の目的を割り出し、焦点を定めることでその見極める力が養われます。
マットの上で繰り返し実践したことは身となり、きっと実生活でも本質を見極める目が手に入ります。その時、それまで過剰に動いていた自分の心が静かに治まる様子を目撃することでしょう。

メメントモリ 死を思うこと|ミッチ・アルボム 「モリー先生との火曜日」

2016/10/04

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む, 言葉からのインスピレーション

「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」モリー・シュワルツ(社会学者 作家)

所属しているヨガの会社の会長である鷲見会長が、生前にスタッフ自身の葬儀を体験して欲しいのだと懇親会の席でおっしゃっていました。もちろんそれは不謹慎なことではなく、自分の死を体験することですべきこととすべきでないこと、成し遂げるべきことと手放すべきことを明確にするために、人生に本当の意義を見出す事ができるように、との願いが込められているのであろうことを理解することができました。ヨガインストラクター育成スクールにてディレクターを務めさせていただき、所属する講師の教育を担当させていただいている僕は、鷲見会長からインスピレーションを受け、ある本を研修の一貫として必須課題図書に選ぶことを思いついたのです。

ヨガのインストラクターになるための勉強を始めた頃に尊敬していたヨガの先生がいて、その先生のクラスは毎週火曜日でした。呼吸を繊細に感じ取り、ポーズからポーズへ繋ぐムーブメントには感受性豊かな、詩的な表現の言葉が連なり、それがまるで音楽のような、リズム感を生む不思議な心地良さに溢れた素敵なヨガのクラスでした。その先生から勧められた1冊の本がありました。ヨガ的な考え方を身につけたいと、難解なヨガ哲学の解説書を傍に置いてましたが、理解に苦しんでいた頃に紹介された本のことをその頃の懐かしさと共に思い出しました。

「モリー先生との火曜日」と題されたその本は、社会学の学者であり、米国のブランダイス大学の教授であるモリー・シュワルツが、難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)という死に至る神経疾患に侵されながらも、類まれな精神性の高さを持ち続け、死に侵蝕されながらも、人々に勇気を与え続けた真の教師としての生き方を綴ったノンフィクション作品です。

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モリー先生はひょんなことから、元教え子で、ジャーナリストのミッチ・アルボムと再会を果たします。彼らがモリー先生の授業で毎週火曜日にキャンパスで会っていたように、今度は病床に伏せるモリー先生の自宅に毎週火曜日、モリー先生が肉体を離れるまで全部で14回訪問しました。病に伏せた教授と若きジャーナリストは、教授の人生最後の講義を記録し、この物語のテーマを「人生について」、つまり「死」ということを前提として、今世の人生をいかにして生きるかを大きな題材とし、「世界の現象」「文化」「愛」「感情」「欲望」「恐怖」など、おおよその宗教や哲学が扱う難しい内容を、モリー先生流にシンプルで分かりやすく、また知性や洞察力に溢れた素晴らしい智慧の数々で綴られています。

「死ぬっていうのはね 、悲しいことの一つにすぎないんだよ 。不幸な生き方をするのはまた別のことだ。」

モリー先生の死を前提とした2人の再会でしたが、ミッチが大学を卒業して数十年が過ぎ去り、時は2人を確実に変化させてしまいました。売れっ子のスポーツジャーナリストとして、人から見たら欲しいものをすべて手に入れたように見えるミッチですが、心は空虚で乾いていました。そして、ミッチはモリー先生との再会を喜んでいましたが、心の中では良き生徒でない自分に後ろめたさを感じてさえいたのです。

毎週火曜日に彼らは会い、そして人生の意味を再度考察していきます。先生と生徒という形態ですが、多くの教師がそうであるように、モリー先生もまた、ミッチに教えるということで自らが人生の真意を学んでいたのではないでしょうか?またミッチも再び、モリー先生の教えに触れることによって、みずみずしい感性を取り戻し、心を潤していくのです。

人はだれしもが本質的には生きる意味を求めていると思います。そして、ヨガの世界では、人は使命を持って、この時代、この場所に生を授かったと考えています。モリー先生が社会学というツールを使い 人生の意味を探求していたように、僕たちは、ヨガというツールを使い、自己探求をすることで自分の使命を理解することができるようになります。その使命を本当の意味で理解したのなら、僕たちはどのような態度や振る舞いに変わるのでしょうか?

モリー先生はこの様に語っています。

「みんなまるで夢遊病者なんだな。われわれはこの世界のことを十分に体験していない。それは半分寝ているから。やらなければいけないと思っていることを無反省にやっているだけだから。」

「よけいなものをはぎとって、かんじんなものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっとかわるよ。」

死を見据えることができるならば、私達の意識が開かれて、今により焦点を当てることで良き、意義のある人生の展開が可能になるようです。

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まだ若い頃は、時間やエネルギーが無限にあるように感じていました。しかし肉体には制限があり、魂は無限に存在し続けることを理解している今、この肉体を持って生まれた使命を全うしたいと、モリー先生のメッセージを読みながら思います。

僕が肉体を去ったら、この人生で出逢った人たち、つまり家族や友人やパートナーを愛した証しはどこへいくのか?長い間、このことをどの様に理解したら良いのかと考えていました。この質問にモリー先生はこの様に答えてくれています。

「愛とは死んだあとも生きてとどまるもの。」

死んだあと、親しかった人々にいつしか忘れさられるのが心配でないか?との答えに「愛は生きてとどまる。」とモリー先生は明言します。

肉体を離れて、物質としてこの世界を去ったとしても、愛が記憶や意識してこの大きな宇宙の片隅に記録されるのならば、それは素晴らしいことだと思うのです。

死を見据えるために毎朝
「今日が最後の日か?」
「用意はできているか?」
「すべきことはすべてしているか?」
「なりたいと思う人間になっているか?」
とマントラの様に唱えると良いとモリー先生は言います。

ある朝に、明日がこの肉体を去る日、この人生最後の日だとつげられたとしたら、僕は誰に何を伝えにいくだろうか?
そして誰に「愛している」と伝えにいくだろか?

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ミッチ・アルボム「モリー先生との火曜日」2004年 NHK出版

ヨガヨムへ寄稿しています。

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