Makotoのオフィシャルブログ

優しさを持って取り組む「アヒムサ(非暴力)」

2015/07/20

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

いつも私が誰かに好意を抱くその時に、その人が掲げるマニフェストに強く惹かれていく傾向がある。つまり、その人が掲げているテーマやコンセプトが、いま自分の取り組んでいることや興味のあることであり、強い共感性と共時性が伴って、ますますその人に惹かれていくのである。

もう30年近くも前、多分その時代を人々はバブルというのだけれども。
「24時間戦えますか!?」
と大胆なキャッチコピーを掲げた栄養ドリンク剤の広告があった。

私が強い共感性と共時性を持って惹かれたその人は、「24時間戦えますか!?」を地で行くハードワーカーだった。仕事の知識や技術はもちろん、知性や教養そして倫理までも博学で、その人の生きる世界はすさまじく淘汰の激しい世界なのだが、その人は微笑みながら「No pain, No gain.」と言った。

痛みなくして、成長はない。
心や身体がすりきれるほどにハードな仕事をもつその人の前向きな向上心と精神性の高さにものすごく憧れた。

ヨガの世界では、自分と世界を結ぶための道徳的な規範が5つあり、その筆頭が「アヒムサ(非暴力)」である。インド独立の父で、世界的に有名な指導者であるマハトマ・ガンジー氏が掲げていたコンセプトとしても有名である。

「アヒムサ」とはインド古代の言葉、サンスクリット語である。
「ヒムサ」が暴力を意味し「ア」が付くことで否定形になる。ヨガの世界では「非暴力」と一般的に訳される。

人生という旅を続け、自分自身の精神性を高めていく課題に取り組む時、この「No pain, No gain.」と「アヒムサ(非暴力)」のコンセプトをどのように結びつけることができるだろうか?

私が実践し指導をしているハタヨガは、身体をツールとしながら、自身の精神性を高めていこうと試みるワークである。ハタヨガの場合、ポーズがアクティブでアクロバティックゆえ、人によっては身体的な痛みが伴う。どのようなアプローチであれ、自己成長と共に伴うであろう身体的、精神的な痛み。その痛みと私たちはどのように折り合いをつけていくべきであろうか?

ハタヨガでさまざまなアーサナに取り組み、身体を曲げる、伸ばす、ねじる、または逆さまになることを通じて、身体は今までに感じたことのない強い衝撃を受ける。ハタヨガはアーサナにより緊張と弛緩を繰り返す。この緊張がアーサナの力強さ、または安定につながるのだが、度が過ぎると過緊張になってしまい、ヨガで重要な心地よい深い呼吸が妨げられてしまう。実際にアーサナに身体がなじむまでは、主要な関節や筋肉が痛むのは、ヨガのプラクティショナーであれば誰でも通る道である。

私がヨガの練習を始めて間もない頃、クラスでケガをした。開脚前屈のポーズ中に、太もも裏側が張りすぎて、パチンと何かが弾ける音がした。その場ではにぶい痛みがあり練習を続けたが、その後痛みはひどくなり、整骨院通いが数ヵ月続いた。

この時、練習を続けるべきか否かという選択を迫られるが、私の場合は練習を続けた。正直、当時はヨガを始めたばかりのビギナーであり、自分の身体の声を聞けるほど、身体の意識や感覚がはっきりとあったわけではない。自分の身体を手探り状態で探求していた。

太もも裏側の鈍痛はその後数ヵ月続いたが、その後はヨガの練習の質に気を配るようになり、解剖学を学び、次第に身体意識が育まれ、理性を持ってポーズに取り組むことができるようになった。

果たして、その痛みに意味はあるのだろうか?
何かの現象に意味付けをするのは、常に個人の主観に偏りがちだ。意味があるか否かは、個人の感覚的な問題であるため定義が非常に困難である。しかし痛みをしっかりと感じとれるということは、身体との対話がなされているということ。身体からのメッセージが受け取れるということ。痛みそのものではなく、自分の身体からメッセージを受け取れることに意味があり、それは素晴らしいことであると私は思う。そのメッセージは、知性や理性を通じて受け取れるのだ。

またガンジーは「アヒムサ(非暴力)」を掲げながら、断食という手段で迫害や差別に抵抗した。しかし断食は、度が過ぎてしまったり、正しく行われなかったりすると自身への暴力ともなり得るし、断食の過程では痛みが伴うであろう。彼は自身の行いのエッジを心得ていた。「ヒムサ(暴力)」と「アヒムサ(非暴力)」のエッジを。もしくは心得ていたというより、彼の優れた知性と理性が、そのエッジの極(きわみ)に身を置くことを許したのだろう。

今まで障害となっていた事象を乗り越えて行く時、
前進して進歩、進化していく時、
その人の次元を遥かに超える時、
自分自身の可動域を超える時、
やはり痛みは伴うのだと思う。

痛みが起きた時に、自分の知性や理性をうまく扱うことができれば、そのエッジを味わうことができる。私もそのエッジの極に身を預けて丁寧に味わっていきたい。

そう、知性と理性を味方できれば、Breakthrough(ブレイクスルー)を起こすことは、常に誰にでもできるのだ。

そして笑顔でこう言おう。「No pain, No gain.」

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アムリタ

2015/06/02

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, 自己探求

10代の頃、今よりも1日をゆったり感じたり、1ヵ月先の楽しみなイベントを指折り数え待っていたりした。

そう、あの時間がゆっくりと流れていたころに、テレビでは「29歳のクリスマス」というドラマが放送されていた。
当時の私は自分が29歳、要は30代を目前に控えることなどまったく想像できずに、そのタイトルやドラマで描かれている山口智子さん演じる主人公の29歳で迎えるクリスマスという意味合いや心情が理解できずにいたと思う。ドラマのタイトルに29歳とかかげる意図が分からなかった。
きっとそれはセンチメンタルことなんだろうが自分には想像ができない、はるか未来のことのようであるし、そもそも他人ごとのように感じていたのであろう。それから自分が29歳を実際に迎えてきたが、特に感慨深いものなどなくて、その時の誕生日の記憶、思い出があまりないのが正直なところである。

29歳のクリスマスから数年後、自分の持ってい体質(アーユルヴェーダでいうドーシャ)のマイナス面が顕著に現れだした。
このまま心身共に健康でいられるのか?と不安感に苛まれた時にヨガと出会った。
当時は冷え性や肩こり、慢性的な疲労感、便秘など、自律神経がアンバランス状態であった。
それまでいたファッションやアートの世界から離れて、ヨガの練習が毎日できるように仕事を変え、引越し、そしてヨガの練習に集中した。
自身の体質をヨガで改善し、ヨガの指導者になることを志した。

それから10年の年月が流れて、2015年私は40歳を迎えた。
かつてあんなに長いと感じていた1日は短く、1週間はあっという間に過ぎて、1ヵ月先の予定はすぐ目の前にやってきてしまう。
年齢を重ねた今は時間が一瞬で過ぎていく。
ヨガの恩恵で、私が目指していたところを歩み進められていて、心身ともに健康であることに感謝したい。

ヨガインストラクターとして活動していると、「どのようにしたら若さを保てるのか?」という質問をよくいただく。
きっと質問した方の意図は見た目のことを指しているのだから、身体的な取り組みとしてはヨガしかしていないので(近年ではヤムナ(ボディワークの一種)もしている)「ヨガです。」と答えると「ほかには?」と返されるが、実際に身体的な取り組みとしてはヨガとヤムナの実践しかしていないので答えようがない。。。
もちろん私がヨガと指すものの範疇には、呼吸法や瞑想も含まれている。
確かに、ヨガの生徒や指導者には、年齢や性別などを軽々と超越してしまっている方々が多いのは事実であろう。
身体面でのヨガの効果効用や、アンチエイジングとしてのヨガの可能性はもうすでにたくさん語られていると思うので、ここでは割愛したい。

「アムリタ」という言葉は、古代や中世のインド亜大陸、東南アジアで用いられていた言語であるサンスクリット語でインドの神話に登場する神秘的な飲料を指し、それを飲む者に不老不死を与えるという。
この神の甘露は太古の昔から多くの人々が求めて止まないものであり、様々な神話や物語のモチーフとなっている。

まるで、「アムリタ」を飲んだかのように、ヨガの実践を続けることで生命体としてのエネルギーが上昇し、輝きが身体の内側から外側へと良い影響を及ぼす。しかし、その身体側面への影響というのはヨガの恩恵の副産物に過ぎない。

ヨガの伝統的な流派である創設者の賢人の方々がここ数年で亡くなられている。偉大なヨガマスターですら肉体は儚く、滅びるものである。もちろんその賢人たちはそのことを十分に心得ていた。肉体を持っている自分と本当の自分との識別がきちんとできていたからこそ、今ここにただただ、存在するいう実践のマスターであったのであろう。

私たちヨガの練習生は、確かに「アムリタ」=「神の甘露」を飲んでいるのかもしれない。しかしそれは外見を整えるためではもちろんない。私たちの直感にアクセスし、知性を輝かせるためである。
つまりアムリタの不老不死とは、肉体レベルではなく精神のレベル、魂のレベルでの不老長寿や不老不死であるのだと思う。
内側の純粋性と清潔を保ちこの世を生きていきたい。

今日をより良く生きよう。

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レイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」

2015/05/18

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む

30代を目前に控えた20代後半頃に、自分自身の体調の管理や体型の維持、マインドを落ち着ける方法を模索していた頃にヨガに出会った。もともと身体への強い興味があり、精神世界への関心も深まっていたちょうどその時、初めてヨガのクラスに足を運んだ。フィジカルとメンタルを同時に満たしてくれるヨガに即座に魅了され、これが自分の生きる道だと直感に導かれ、それまでのライフスタイル(仕事や住居)を清算して、ヨガの実践ができる暮らしに変えて、指導者を目指すようになるのに時間は要さなかった。

ヨガの実践を始めて数年後、あるスタジオ主催のヨガ指導者育成コースに参加した。ヨガの勉強を本格的に始めた頃、今よりももっと漠然と「ヨガってなんだろう?」とスケールの大きさに唖然とし、そして途方に暮れていた。特に課題図書となっていたヨガの哲学に関する本二冊が難解で、読み進めては挫折、読み進めても言葉が一向に頭に入ってこない状況が8ヵ月に及び、トレーニング修了(インターバル含め12ヵ月)後もそれが続いた。難解なヨガ哲学解説書を小脇に抱えて「ヨガとは?」と一人悶々としていた私を見兼ねた、当時プライベートでも親交があったヨガの先生がスタジオで「これを読みな」と渡してくれた本がある。

その本とは、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー(※)」である。「センス・オブ・ワンダー」の言葉の意味は、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性と本書では定義されている。

この本は、海洋生物学者のレイチェルと彼女の甥のロジャーが、共に数ヵ月過ごした海や山でのエッセイで、子どもの無邪気な状態で大自然の神秘や不思議に目を見張り、体でその驚異を感じ取ることが大切であり、そういった体験こそが「センス・オブ・ワンダー」=「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性」を育むことに繋がると。つまり子どもと一緒に自然を探検し、発見の喜びに胸をときめかせることが、そのセンスを磨くことになるのだと伝えている。

「センス・オブ・ワンダー」という本に出会って数年の時が経ち、引越しを重ねたこともあって、私は手元にその本を残してはいなかった。2014年、大切な人へのクリスマスギフトをと思い立った時、なぜかまっさきにこの本が思い浮かんだのであった。

今改めてこの本を読み直している。そして感じるのは、「センス・オブ・ワンダー」を司っているものは「オーガン・オブ・センス(organs of sense:感覚器官)」に他ならない。つまり、レイチェルが提唱するように「センス・オブ・ワンダー」を育むために子どもと自然を探検する旅に出たとしても、そもそもそのセンスの源であろう、感覚器官が健全でなければ育みようがない。土壌のないところには何の植物も作物も育たないように。

本にはこの様に記されている。

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子どもといっしょに自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性に磨きをかけるということです。それは、しばらく使っていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、鼻、指先のつかいかたをもう一度学び直すことなのです。
わたしたちの多くは、まわりの世界のほとんどを視覚を通して認識しています。しかし、目にはしていながら、本当には見えていないことも多いのです。見過ごしていた美しさに目を開くひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。「もしこれが、いままでに一度もみたことがなかったものだとしたら?もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と。
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本の中では、レイチェルとロジャーが、自然の中で感覚器官を最大限に研ぎ澄まし、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張っている様子が幾度も窺える。

またはこう言い換えることもできる。自然の中で感覚器官を研ぎ澄ます練習が「センス・オブ・ワンダー」を育むことへつながる。自然の中へ幼い子どもと出かけることができなかったとしても、街の雑踏の中や自宅のキッチンにいたとしても、ありふれた日常の中で自然の織りなす神秘に目を見張れる時があるはずだし、まずは感覚器官を持ったこの身体こそが最も身近な自然であると。

この一番の身近な自然である身体を通じて「オーガン・オブ・センス(感覚器官)」を研ぎすまし、「センス・オブ・ワンダー」=「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性」を育むことができると思う。

そして私たちが健全な五感を持ち合わせるべき必然的な理由と、美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性を育んでいくべき理由がこの本を通じて明らかになった。その理由を本文から見てみよう。

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人間を越えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか?それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深い何かがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまされることは決してないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たな慶びへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
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この本を再度読み終えた時、ヨガのコンセプトの理解に頭を抱えていた当時の自分と、数年後の今ここでヨガのメッセージを人々に伝えている自分がリンクした。そして、当時この本と出会って、再度読み直すという経緯もひとつにつながり腑に落ちた。

感覚器官に惑わされることなく、そこに健全さがが保たれた時に「オーガン・オブ・センス(感覚器官)」と「センス・オブ・ワンダー」の調和が保たれた時に、「今」「ここ」を強い衝撃をもって感じることができる。その力によって目が見開かれた状態となり、美しいもの、未知なもの、神秘的なものをつかみ感じ取る更なる力が備わるのだと思う。

その力を蓄えるために私はヨガを通じて目、耳、鼻、指先の使い方をもう一度学び直しているし、それを人々に伝えることを生業としているのである。このメッセージが降りてきたことは直感が開かれていることであるし、「センス・オブ・ワンダー」の成し得る技だと思う。最後の瞬間まで、今、ここ、この瞬間に生きていられるように、私の中の美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見張る感性を育んでいきたい。

※レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』1996年 新潮社

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オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」

2015/05/07

カテゴリ: Makotoのオフィシャルブログ, ヨガを感じる本を読む

私が高校生の頃、池袋の書店に毎日足しげく通っていた。その書店のセレクトは素晴らしく、特にアート系は独立した売り場を持ち、古典から前衛まで様々なアート本が所狭しと並んでいたのを覚えている。

私はアート全般に傾倒し、中でもアンダーグラウンドなパフォーマンスやアートに憧れた。オノ・ヨーコというアーティストを知ったのもこの頃だ。1964年にニューヨークのアンダーグラウンドなアートシーンで限定500部(英語)で出版された詩集「グレープフルーツ」が、日本語訳とモノクロの美しい写真とともに再編され「グレープフルーツ・ジュース(※)」として出版された。当時はジョン・レノンの妻としての認識しかなかったが、その詩集を通じて彼女のアーティストとしての側面を知り、展覧会や作品集等でいくつかの作品に触れたが、間違いなくこの詩集がオノ・ヨーコの傑作であるのは間違いないだろう。

「想像しなさい」など、すべてがインストラクション形式(指示、命令)で書かれている。この詩集がジョン・レノンをインスパイアし名曲『イマジン』が生まれたのはあまりにも有名である。

呼吸やプラーナ(気、エネルギー)を感じる書籍を誌面で紹介してくださいという、あるヨガの雑誌から依頼を受けた時に、呼吸法やアーサナの練習、あるいは生命力を高めるなにかのワークに対してインスパイアできる本がないかと考えた時に、私の記憶は
遥か昔、高校生の頃の多感な自分に戻っていった。そこでオノ・ヨーコの「グレープフルーツ・ジュース」をピックアップした。

「地下水の流れる音を聴きなさい。」
「心臓のビートを聴きなさい。」
「地球が回る音を聴きなさい。」

などといった完結な言葉の前後に呼吸を意識し、感じることができる。また目を閉じて、ビジュアライゼーションすると、その光景に漂うエネルギーや気を感じることができる。

この詩集を読み進めていると、心地よく流れるフロースタイルのヨガクラスで、気持ちよくアーサナからアーサナへと流れる体感を得る。呼吸が途切れずに、その繋ぎ目が滑らかに続き、どこまでも快適な呼吸が続いていける。そんな予感で満たされていく。

「出入りする小さなドアを作りなさい。
出入りする度に、あなたはかがんだり、縮んだりしなければならない。
これは、あなたにあなたがどれ位のサイズなのか、
出ることと、入ることとは何か?を気づかせてくれる。」

この詩はイメージするだけで自身の身体意識や空間を読み取る練習になりそうだ。実際に私たちは身体を粗雑なものとして扱いやすく、このイメージが私たちの身体をより微細なものとして捉えるきっかけを作ってくれそうである。

「想像しなさい。
西から東へ一匹の金魚が空を泳いで行くところを。
そこで水を1リットル飲みなさい。
想像しなさい。
今度は東から西へ一匹の金魚が空を泳いで行くところを。」

この詩は全く非現実的ではあるが、自身の想像力を高め、視覚的映像や心象を喚起する能力を高めてくれる練習にほかならない。このイメージを頭に浮かべることは確かに渇いた心身に潤いを及ぼすだろう。

この本の最後には

「約束しなさい。」

という言葉と共に

「燃やしなさい、この本を読み終えたら。」

とある。

燃やすという行為の結果は、燃え尽きるである。つまり最後まで息を吐き切ること、又は息を引き取るということである。最後は息を吐き切ることで終わるこの詩集の随所に、私は呼吸を感じずにはいられない。

※オノ・ヨーコ『グレープフルーツ・ジュース』1998年 講談社文庫

 

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